1960年、17歳の時、ファーストシングル「潮来笠」でレコードデビューすると、いきなり「第2回日本レコード大賞新人賞」を受賞し、その後も、「いつでも夢を」(吉永小百合さんとのデュエット曲)と「霧氷」で、2度も「日本レコード大賞」を受賞するほか、現在も現役の歌手として活躍されている、橋幸夫(はし ゆきお)さん。今回は、そんな橋さんの生い立ちをご紹介します。
年齢は?出身は?身長は?本名は?
橋さんは、1943年5月3日生まれ、
東京都荒川区のご出身、
身長167センチ、
体重63キロ、
血液型はA型、
学歴は、
城西大学附属城西高等学校卒業、
趣味は、
パソコン、アイロンかけ、ドライブ、ゴルフ、
特技は、絵画、
好きなスポーツは、
ゴルフ、野球、テニス、柔道、空手、ボクシング、
ちなみに、「橋幸夫(はし ゆきお)」は本名ですが、「風間史郎」「勅使原煌」のペンネームで作曲もされています。
9人兄弟の末っ子として誕生する
橋さんは、東京・荒川区で染物店を営んでいた染め職人のお父さんと、芸事が好きで歌手に憧れていたお母さんのもと、9人兄弟(6男3女)の末っ子として誕生するのですが、
(一番上のお兄さんとは24歳も年が離れていたそうです。)
戦争でお父さんの染物店が焼けてしまうと、橋さんが小学生の時、一家で豊島区の池袋に転居して洋品店を営んだそうで、お母さん、お兄さん、お姉さんと、家族全員がお父さんを手伝い、みんなで家計を支えたそうです。
家族がいつも歌謡曲を聴いていた
そんな大家族の中で育った橋さんは、小学生の時、学校から帰ってくると、よく家族の誰かが、蓄音機で「君の名は」「愛染かつら」「青い山脈」などの歌謡曲を聴きながら歌を歌っていたそうで、自然とメロディを覚えるようになるなど、音楽的に恵まれた環境で育ったそうですが、
橋さんは、
(お気に入りだった曲は)もう少し大きくなるとあるんですけど・・・。単に、食事する前に歌っていたり、聴いていたりするんでね。
何でうちはこんなに年中、歌聴いているのかなって記憶しかなくて。なんだかわからないうちに、聴かせられている感じでした
と、この頃はまだ、歌に興味はなかったそうです。
小学校の遠足のバスの中では一人だけ歌謡曲を歌っていた
とはいえ、橋さんは、小学4~5年の時、遠足のバスの中でマイクが順番に回ってくると、他の子供たちが童謡や民謡を歌う中、いつも家の中で聴いて耳に残っていた、織井茂子さんの「黒百合の歌」を歌ったそうで、
一般的には子供が歌う歌ではなかったため、「なんだ!その歌は!」と、みんなびっくりし、先生も、「お前、なんでそんな歌知ってるんだ!」と、とても驚かれたそうです(笑)
小中学校時代は格闘技に夢中だった
そんな橋さんですが、ボクシング、空手、柔道などの格闘技をやっていたお兄さんたちの影響を受け、小学校で空手を始めると、その後、柔道、ボクシングと、続け様に格闘技を始めたそうです。
ただ、橋さんが中学2年生の時、空手仲間の少しグレた連中と付き合うようになったことから、そのことを心配した先生が、父兄会の時にお母さんに報告すると、お母さんは、心配で心配でたまらくなってお兄さんたちに相談。
(橋さんは、お母さんが42歳の時の子どもだったため、とても可愛がられていたそうです)
すると、お兄さんとお母さんは、橋さんを仲間から切り離し、遊ぶ時間を奪おうという結論に至ったそうで、橋さんは、東京・中野区に引っ越しさせられてしまったのだそうです。
(この頃、お兄さんたちは、それぞれ、いろいろな商売をするようになっていたそうですが、一番上のお兄さんは、洋品店で青年商工会議所の役員になるほど成功していたそうで、そのお兄さんが、中野区に呉服屋を作り、染職人だったお父さんにプレゼントされたそうで、橋さんもそこに移らされたのだそうです)
「橋幸夫の少年時代は家族の意向で嫌々歌手を目指していた!」に続く