1967年、劇団「天井桟敷」を旗揚げされ、名作「青森県のせむし男」「毛皮のマリー」を生み出された、劇作家で歌人の寺山修司(てらやま しゅうじ)さん。亡くなってもなお、若者たちの心をとらえ続けています。


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プロフィール!

寺山さんは、1935年12月10日生まれ、
青森県弘前市のご出身です。

学歴は、
早稲田大学教育学部国文学科中退、
(現在の国語国文学科)

趣味は、競馬、

だそうです♪

俳句に目覚める

寺山さんは、1949年、
中学2年生の時、

後に俳人となる、
京武久美(きょうぶ ひさよし)さんと、
友人になられると、

俳句を作っていた京武さんの影響で、
俳句づくりを始められます。

そして、その後、文芸部にも入部し、
俳句、詩、童話などの創作活動を開始。
作品を学校新聞に書き続けられたそうです。

また、1951年に中学を卒業後、
高校に進学されても、引き続き、
文芸部に所属され、「山彦俳句会」を結成。

高校1年生の終わり頃には、
「校内俳句大会」を主催したり、

中学の時の友人、京武さんと創刊した、
俳句雑誌「牧羊神」の編集・発行を、
高校卒業まで続けられるなど、
早くもその才能を開花されたのでした。

歌人としての才能も開花

また、1954年、
大学に進学されると、

後に歌人となる、
中城ふみ子さんと知り合われたことから、

短歌を作り始められ、
歌人としての活動も開始。

なんと、18歳という若さで、
「第2回短歌研究50首詠(後の短歌研究新人賞)」を受賞し、
歌人としての才能も開花されたのでした。

初上演、初出版

そして、翌年の1955年には、
早稲田大学の大隈講堂で、

寺山さんの処女戯曲「忘れた領分」が、
上演されたのですが、

この頃、寺山さんは、「混合性腎臓炎」で、
入院を余儀なくされてしまい、在学1年足らずで退学。

それでも、1957年には、
第一作品集「われに五月を」

「われに五月を」

1958年には、
第一歌集「空には本」(的場書房)

「空には本」

を刊行されるなど、
創作活動は続けられたのでした。

谷川俊太郎との出会い

さらに、「忘れた領分」を見た谷川俊太郎さんが、
入院中の寺山さんを、病院に見舞いに訪れたことから、
お二人は友人となられ、交流を深められることに。

1959年、寺山さんは、谷川さんの勧めで、
ラジオドラマも書き始めておられます。

また、寺山さんは、谷川さん、江藤淳さん、大江健三郎さん、
浅利慶太さん、永六輔さんらと「若い日本の会」を結成。

翌年の1960年、ともに、
安保反対運動をされたのでした。

以降、寺山さんは、
ラジオ作家、劇作家、脚本家、作家として活躍され、

1960年半ばには、
「青少年のカリスマ」と呼ばれるまでに。

1967年には、劇団「天井桟敷」を結成されるなど、
その創作意欲は衰えを見せませんでしたが、

1983年、惜しくも、
47歳という若さで亡くなったのでした。

競馬?

そんな寺山さんを「競馬」で、
多くの方が検索されているようです。

調べてみると、寺山さんは、
1956年、21歳の時、

「混合性腎臓炎」を患い入院されていた時、
(後に、「ネフローゼ」と診断されています)

同室だった韓国人から教わったのがきっかけで、
競馬を始められたそうですが、

1962年、競馬評論家で作家の、
山野浩一さんと親しくなった頃から、
競馬場へも足繁く通うようになったそうです。

寺山さんは、当時、
牝馬「ミオソチス」の大ファンだったのですが、

1964年、「ミオソチス」が、
中央競馬場から地方に移籍した際、

うす汚れた、雨もり小屋の中で、
あの美しい馬ミオソチスが、
どんなみじめな日を送っているか

と、おっしゃったことから、

船橋の森誉騎手から、

地方競馬への偏見だ

と、抗議文が届いたことがあったそうで、

後に、寺山さんは、
森騎手と新宿で会って話し合った際、
浅はかだった自分を恥じ、

船橋競馬の調教師となった森騎手のもとで、
「ユリシーズ」と名付けられた馬の馬主となられています。

1967年、ミオソチスと再会した寺山さん。

ちなみに、1973年、寺山さんは、

遊びっていうのはもう一つの人生なんだな。
人生じゃ敗(ま)けられないことも、
遊びでだったら敗(ま)けることができる。

と、日本中央競馬会のテレビCMの中で、
つぶやいておられます。

CMとはいえ、
なんとも、奥の深い言葉ですね~

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死因は?

最後に、寺山さんの気になる、
「死因」なのですが、

調べてみると、
「肝硬変」だったそうです。

寺山さんは、1979年、44歳の時、
医師から「腹水のみられる肝硬変」と診断され、
大学病院に入院され、2ヶ月後に退院。

しかし、2年後の1981年に、
急激に肝臓が悪化してしまいます。

それでも、創作活動に打ち込みたい寺山さんは、
入院を拒否されたそうで、

今、45歳なんだ。
後5年だけは、演劇をやりたい。

その後10年は、文筆一本に絞る。
だから、60まで生かしてくれないか。

と主治医に訴えられたといいます。

願い叶わず、1983年で亡くなった寺山さんは、
さぞ、無念だったことでしょうね。

さて、いかがでしたでしょうか?

ちなみに、女優の高橋ひとみさんは、17歳の時、
寺山さんの舞台オーディションを受けて以来、
寺山さんが亡くなるまでの3年間、
とても親しくされていたそうですが、

寺山さんについて、

親以上ですね。私が21歳の時に亡くなったのですが、
その後の30何年間の人生よりも濃い3年間でした。

もう年も超えてしまったし、
あんな大人にはなれないなと思います。

テレビの世界に入って、今があるのも寺山先生のおかげ。
見返りを求めない無償の愛、大きな愛をくれた存在です。

と、語っておられます。

才能にあふれ、数々の名作を残された寺山さんは、
大きな心を持った、とても愛情あふれる人だったようですね。

お芝居の中で、詩の中で、映画の中で、
寺山さんの魂は永遠に輝き続けることでしょう。

ご冥福をお祈りしています。

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