1965年、グループサウンズバンド「ザ・スパイダース」で、一躍スターダムに駆け上がると、解散後は、俳優、司会、タレントと幅広い分野で活躍されている、堺正章(さかい まさあき)さん。今回は、そんな堺さんのルーツである父親・堺駿二さんについて調べてみました。
年齢は?出身は?身長は?本名は?
堺さんは、1946年6月6日生まれ、
(お父さんが出生届を2ヶ月出し忘れていたため、戸籍上では8月6日生まれとなっているそうです)
東京都世田谷区のご出身、
身長163センチ、
靴のサイズは、24センチ、
血液型はA型、
本名は、栗原正章(くりはら まさあき)、
学歴は、
鎌倉市立御成小学校
⇒鎌倉学園中学校
⇒鎌倉学園高校卒業
趣味は、
グルメ、麻雀、クルマ、クラシックカーレース、クレー射撃だそうです。
父親は喜劇役者の堺駿二
堺さんのお父さんは、喜劇役者の堺駿二さんです(本名は栗原正至)。
堺駿二さん。
駿二さんは、桶屋を営む父親(堺さんの祖父)の元に誕生するも、9歳の時に父親が他界したそうで、その後、11歳の時、お芝居が好きだったお母さん(堺さんの祖母)が、公園劇場を中心に活躍していた、新派の伊村義雄さんに頼み、一座の子ども部に入ったそうです。
ただ、伊村さんは、当時の雑誌の人物評で、
大の癇癪(かんしゃく)持ちで 幹部であろうが太夫元であろうと関わらずに叱咤(しった)するほどの変人である
と、評されたこともあるほど気性の激しい人だったようで、台本の覚えも仕草も悪かった駿二さんは、伊村さんに殴られたこともあったそうです。
父親・堺駿二が早川雪洲と出会う
そんな駿二さんは、「小村正雄」を名乗り、子役として活動を開始すると、やがて、殺陣や女形などを上手に演じこなすようになるなど、才能を開花。伊村さんから養子になることを哀願されるほどになるのですが・・・
「伊村義雄一座」に入って8年目の1931年、18歳の時、アメリカから帰国した俳優・早川雪洲(はやかわ せっしゅう)さんの舞台を観ると、居ても立っても居られなくなり、「伊村義雄一座」から逃亡。
(早川雪洲さんは、当時、サイレント映画時代のハリウッドで、日本人でありながら、スター俳優として一世を風靡されていました)
どうしても早川さんの弟子になりたくて、浪曲師だったお兄さん・小柳丸さんの浪曲家仲間で、早川さんの友人だった、浪曲師・東家楽燕さんにすがりついたそうです。
ただ、早川さんは弟子は取らない主義。それでも、駿二さんは、早川さんのところに100日間通い詰めたそうで、1932年、ついに、早川さんの一座に入ることを許されたのだそうです。
(ちなみに、駿二さんは、この時、早川さんが「雪洲と栗原の間に境をつけたい」と思われていたことから、名字を「堺」、名前は雪洲の「洲(しゅ)」から取って「駿二」と名付けられたそうで、この「堺駿二」という芸名を生涯名乗り続けたそうです。)
早川雪洲さん。
父親・堺駿二は早川雪洲のアドバイスで自身のキャラクターを確立
こうして、早川さんの一座に弟子入りした駿二さんは、早川さんの付き人も兼ねていたのですが、
ある時、早川さんから、
君は まともな役より ちょっと足らない役どころの方がいいねぇ
と、言われたそうで、
その後、駿二さんは、早川さんから言われたキャラクターを自身の持ち味として確立していったのだそうです。
「堺正章の父親は堺駿二!母親は松竹少女歌劇団の三浦たま子(幹千代子)!」に続く