1977年、中学1年生の時にジャニーズ事務所に入ると、1979年、テレビドラマ「3年B組金八先生」で生徒役を演じ、たちまち人気を博した、近藤真彦(こんどう まさひこ)さん。翌年の1980年には、ソロデビュー曲「スニーカーぶる~す」がいきなりミリオンセラーとなり、以降、次々とヒット曲を連発されたのですが、人気絶頂の1987年、交通事故で亡くなったお母さんの遺骨が盗まれ、その年の「レコード大賞」の出席を辞退するよう、脅迫文が送りつけられてしまいます。
年齢は?出身は?身長は?本名は?
近藤さんは、1964年7月19日生まれ、
神奈川県大和市のご出身、
身長173センチ、
血液型はO型、
趣味は、
自転車、ミニカー、車のおもちゃ収集、メダカ、
ちなみに、
近藤真彦は本名です。
「3年B組金八先生」でたちまち人気に
近藤さんは、小学校時代は少年野球チームに所属し、プロ野球選手を目指していたのですが、ジャニーズファンだった野球チームの監督の娘が、勝手にジャニーズ事務所に近藤さんの履歴書を送ったことがきっかけで、1977年、中学1年生の時、ジャニーズ事務所に入所。
入所後はレッスンを重ね、1979年10月、テレビドラマ「3年B組金八先生」の生徒「星野清」役で、田原俊彦さん、野村義男さんとともにデビューを果たすと、ドラマは高視聴率を記録し、3人の人気も爆発。
1980年4月に開催予定だった、3人初のイベント「金八トリオ・ファンの集い」は、
予想をはるかに上回るファンが来場したため、中止となるほどの人気を博したそうで、
近藤さんは、この「金八先生」の出演をきっかけに、芸能界でやっていこうと決意されたのでした。
(近藤さんは、ジャニーズ事務所のレッスンに通い始めた当初は、芸能界でやっていく気はまったくなかったそうです。)
「金八先生」より。近藤さんと武田鉄矢さん。
ちなみに、その当時、ジャニーズ事務所は低迷しており、なんとか新人を売り出したいと考えていた、ジャニーズ事務所の社長、ジャニー喜多川さんが、生徒役のオーディションがあることを知って、
今、TBSに来てるから、とりあえず会ってください
と、プロデューサーの柳井満さんに電話をされると、すでにその時には、生徒役のオーディションは終了し、合格者も決まっていたそうですが、
とりあえず見るだけでもということで、柳井さんが、ジャニーさんの連れてきた、10名のデビュー前の新人アイドルに会われると、劇団出身の子どもたちとは違った、明るい雰囲気に惹かれたそうで、その中から、近藤さん、田原俊彦さん、野村義男さんの3人を選ばれたのでした。
デビュー曲「スニーカーぶる~す」がミリオンセラー
その後、3人は、アイドルグループとして、「たのきんトリオ」と命名されるのですが、正式な音楽グループを編成したわけではなく、3人それぞれがソロデビューをしており、
近藤さんはというと、1980年、映画「スニーカーぶる~す」で主演をされ、1981年に、その主題歌、「スニーカーぶる~す」で歌手デビューされると、オリコンウィークリーチャートで初登場1位を記録。
さらに、この曲は、ジャニーズ事務所史上、初のミリオンセールスとなったのでした。(2017年現在も、近藤さん最大のヒット曲となっています)
「愚か者」でレコード大賞
その後も、近藤さんは、
1981年「ヨコハマ・チーク」
「ブルージーンズメモリー」
「ギンギラギンにさりげなく」
1982年「情熱☆熱風せれなーで」
1982年「ふられてBANZAI」
「ハイティーン・ブギ」
「ホレたぜ!乾杯」
1983年「ミッドナイト・ステーション」
「真夏の一秒」
「ためいきロ・カ・ビ・リー」
「ロイヤル・ストレート・フラッシュ」
1984年「一番野郎」
「ケジメなさい」
「永遠に秘密さ」
1985年「ヨイショッ!」
「夢絆」
「大将」
1986年「純情物語」
「青春」
「Baby Rose」
と、次々とヒットを飛ばすと、アイドル歌手として絶大な人気を誇り、1987年には、ついに「愚か者」で、「第29回日本レコード大賞」を受賞されたのですが・・・
母親の遺骨が盗難
近藤さんが人気絶頂の1986年、まだ43歳だったお母さんの美恵子さんが、交通事故で他界。
しかも、翌年の1987年12月には、美恵子さんの遺骨が盗まれ、
遺骨を返してほしければ、レコード大賞の出席を辞退しろ
などと書かれた脅迫状が、所属レコード会社「ソニー・ミュージックレコーズ」やジャニーズ事務所に送りつけられたのです。
ただ、近藤さんは、このことを知らずに、「第29回日本レコード大賞」の授賞式に出席されており、大賞受賞後にこの事実を知ったのでした。
・・・と、当初は報道されていたのですが、
2010年3月26日に放送された、「中居正広の金スマ波瀾万丈スペシャル」で、近藤さん自ら、これが事実ではないことを告白。
実は、出場するか辞退するかは、近藤さんの判断に委ねられ、悩み抜いた末に出場を決意されていたそうで、
自分を責めました。この仕事をしていなければ母の遺骨が盗まれる事も、もしかしたら死ぬ事もなかったかもしれない。
僕はいいんです。ただ、親戚や家族を傷つけるような番組にはして欲しくないと思っていた。でもこのようなVTRを作って頂き、今回、自分の中で気持ちの整理もつきましたし、
この場を借りて、スタッフやこれまで支えてくれた色々な人に感謝したいです。
涙ながらにおっしゃったのでした。
犯人は?
ちなみに、この番組が放送された時点で、この事件はすでに時効となっているのですが、いまだ、お母さんの遺骨は戻ってきておらず、
近藤さんは、2010年12月10日、「中居正広の金曜日のスマたちへ」に出演された際に、霊能者の木村藤子さんにお母さんの遺骨の行方を尋ねられているのですが、
木村さんは、近藤さんを透視されると、はじめは、
優しい心のある人に鳥居の見える階段の2~3段目のとこに、キチンとカメに入れて保管されてるからいずれは戻って来ます。
と、おっしゃっていたのですが、さらなる霊視で深い事情が見えたのか、
お骨はそう簡単には返りません。返ったとしてもあなたは喜びません。お骨は大切なんですけれども、心が晴れません。これで正解です。
と、言い直されています。
(このことから、犯人は身内では、との噂が流れました。)
すると、後日、近藤さんは、何かが吹っ切れたのか、インタビューで、
おふくろのことは冷静に自分の中で区切りが付きました。俺の人生、過去を振り返っていられないって思ったのは、子どもができて、子どものこれからを考えたとき。
おふくろには申し訳ないけど、16歳で東京に1人で出てきたから、15年しか一緒にいなかった。22歳のとき亡くなって、常に近くにいるイメージがありますよ。
と、おっしゃったのでした。
「中森明菜との金屏風会見の真相は?黒幕はメリー喜多川?」に続く
https://www.youtube.com/watch?v=PyjZJ3vmmXE