1959年、28歳の時、「ジミー時田とマウンテン・プレイボーイズ」に参加し、米軍キャンプやジャズ喫茶で演奏と音楽コントの腕を磨かれた、いかりや長介(いかりや ちょうすけ)さんは、1962年、31歳の時には、「桜井輝夫とザ・ドリフターズ」のリーダー桜井輝夫さんにそのコントの面白さを買われて、「桜井輝夫とザ・ドリフターズ」に移籍。そして、その後はリーダーとなり、グループ名を「碇矢長一とザ・ドリフターズ」に改称すると、コミックバンドとして人気を博すのですが・・・

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年齢は?出身は?身長は?本名は?

いかりやさんは、1931年11月1日生まれ、
東京府東京市本所区中之郷横川町
(現在の東京都墨田区東駒形)のご出身、

身長175.2センチ、

学歴は、
東京都立本所高等学校中退、

本名は、
碇矢 長一(いかりや ちょういち)、

だそうです。

「ジミー時田とマウンテン・プレイボーイズ」に参加

いかりやさんは、中学校を卒業後、
高校に進学されるも、その後、中退されると、

静岡にある製紙工場「春日製紙」に勤めながら、
同僚らとハワイアンバンドを組み、
ダンスホールで活動されていたそうで、

(バンドを始めたきっかけは、
 女性にもてたかったからだそうです♪)

1959年、28歳のとき、
ミュージシャンを目指し上京されると、

ジャッキー吉川さんのロカビリーバンドを経て、
別のロカビリーバンド「クレイジーウェスト」に参加。

その後は、カントリーウェスタンバンド、
「ジミー時田とマウンテン・プレイボーイズ」に、
ベースとして参加され、

立川・横須賀・横田の米軍キャンプや、ジャズ喫茶で、
演奏と音楽コントを磨かれます。


(前列左から)名倉あきらさん、ジミー時田さん、ジャイアント吉田さん、
(後列左から)いかりやさん、藤井三雄さん、寺内タケシさん、宮城久弥さん。

「桜井輝夫とザ・ドリフターズ」

ただ、そういった、いかりやさんのコントを、
よく思わないメンバーもいたようで、

いかりやさんは、当時のことを、
自叙伝「だめだこりゃ」で、

時田が将校のカミさんを寝取ったのがきっかけではないが、
私たちは米軍キャンプだけではなく、日本のジャズ喫茶でも稼ぐようになった。

新宿の「スワン」「ACB」
西銀座の「不二家ミュージックサロン」・・・
当時のジャズ喫茶は若い女性客が主流だった。

お目当ての男性歌手やプレイヤーに、
ワァワァキャアキャア黄色い声援を送る光景は、
ジャズ喫茶も日劇ウエスタン・カーニバルも、
現在のコンサート会場も何ら変りはない。

客席はいつも満員、反応も上々。
言うことなしだったが、おもわぬところから反発が出た。

音楽性を重んじ、ギャグなどちょっとしたサービスでよい、
と考える仲間たちからだ。

ギャグに積極的だったのは、
私とジャイアント吉田だけだったのだ。

と、綴られています。

そんな折(1961年12月)、いかりやさんは、
米軍キャンプ巡業中に交通事故を起こしてしまい、
「ジミー時田とマウンテン・プレイボーイズ」の、
所属事務所との関係がさらに悪化してしまうのですが、

翌年の1962年、31歳の時、
「桜井輝夫とザ・ドリフターズ」のリーダーだった、
桜井輝夫さんに誘われ、同バンドに参加されることに。
(同時期に加藤茶さんも加入されています。)

実は、桜井さんは、ハナ肇さん率いる、
「クレージーキャッツ」のような、音楽でギャグができる、
コミックバンドを作りたかったそうで、

「ジミー時田とマウンテン・プレイボーイズ」での、
いかりやさんの笑いのセンスに目をつけ、
いかりやさんを誘ったのでした。

そして、その後、桜井さんがオーナー的な立場となり、
ステージに立つ機会が減っていくと、

いかりやさんがリーダーとなり、グループ名も、
「碇矢長一とザ・ドリフターズ」と改名。

新宿の「アシベ」「ラセーヌ」「キーボート」
池袋の「ドラム」、上野の「テネシー」、渋谷の「プリンス」
といったジャズ喫茶で演奏とギャグを披露されると、

特に加藤茶さんとのコンビで、他のコミックバンドとは、
比べ物にならないくらいの面白さで人気を博したのでした。


(前列左から)加藤茶さん、ジャイアント吉田さん、
(後列左から)猪熊虎五郎さん、飯塚文男さん、いかりやさん、
小野ヤスシさん、綱木文夫さん。

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分裂の危機

しかし、そんな中、
「碇矢長一とザ・ドリフターズ」のメンバーだった、

小野ヤスシさん、ジャイアント吉田さん、
飯塚文雄さん、猪熊虎五郎さんの4名が、

いかりやさんの厳しさとコントの方向性の違いに、
反発して脱退し、新たなコミックバンド、
「ドンキーカルテット」を結成。

加藤茶さんは、いかりやさんの強い引き止めと、
小野さんへの猜疑心から残留されるのですが、

残った、加藤さんと綱木文夫さんの3人だけでは、
活動を続けることは難しく、いかりやさんは、
急遽、メンバーを探すこととなったのでした。

「死因は?葬儀は加藤茶が弔辞!最後の嘘?志村けんは付き人だった!」に続く

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