一時は解散危機を迎えるも、1970年には「海援隊」を再編成し、引き続き、地元福岡のライブ喫茶「照和」で活動を続けられていた、武田鉄矢(たけだ てつや)さんですが、泉谷しげるさんとの出会いで、ついに東京でのデビューを迎えます。
「武田鉄矢の若い頃は海援隊!財津和夫に解散危機に追い込まれていた?」からの続き
泉谷しげるに誘われて上京を決意
財津和夫さん率いる「チューリップ」にドラムスの上田雅利さんを引き抜かれ、解散危機を迎えるも、新たに千葉和臣さんを加え、引き続き、「照和」でライブ活動を続けていた武田さんは、
その後、「チューリップ」がデビューのため上京しても、
ぼくら海援隊は博多を離れません
と、宣言。
ただ、1972年7月24日、香椎球場で開催された「ふくおか・フォーク夏祭り」に出場した際、吉田拓郎さんに継ぐフォーク歌手として人気が急上昇していた泉谷しげるさんに、
東京へ出てこい。俺が責任を持つ。
と、声をかけられると、気持ちが揺らぎます。
そして、さらには、満員の大観衆を前にしたステージ上でも、泉谷さんが、
海援隊は俺が東京へ連れて行く。レコード会社は俺と同じエレックだ。いいな、お前ら!
と、宣言されると、一気に上京へと気持ちが傾いていったのでした。
「海援隊」
母親に直談判
そんな武田さんは、お母さんのイクさんに、東京で勝負してみたいと直談判されるのですが、学費を工面するため、がむしゃらに働いてきたイクさんは猛反対。
それでも武田さんが粘り強くイクさんの説得に当たると、ついにはイクさんも折れ、1年東京でやってみてダメだったらやめることを条件に、上京を許してくれたそうで、
デビューが決まった武田さんたち「海援隊」のメンバーは、「照和」で「旅立ちライブ」を開催し、
海援隊は九州文化をつくるために上京するのです
と、宣言されたのでした。
博多弁の東京お披露目ライブが大成功
こうして、武田さんは、大学を休学し、1972年10月に上京されると、同年、ファーストアルバム「海援隊がゆく」でレコードデビューされるのですが・・・
「海援隊がゆく」
さっぱり売れず。
そんな中、「海援隊」は、東京でのお披露目となる「日比谷野音」での合同コンサートに出演することになるのですが、コンサートでは絶対に失敗できないと焦った武田さんは、その直前、福岡時代から世話をしてもらっていた「RKB」の野見山実さんに、
迷うとっとです。ステージは標準語でしゃべったほうがいいのかって。ここは俺らが生きるか死ぬかの瀬戸際ですけん‥‥
と、電話で相談すると、
野見山さんは、
博多弁でいったほうがいいよ
と、言われたそうで、
お披露目ライブを博多弁で通した武田さんは、見事、拍手喝采の大成功を納めたのでした。
「日比谷野音」での合同コンサートに出演される武田さん率いる「海援隊」
(ちなみに、1972年当時、九州の言葉は「外国語」に近いほど、馴染みのない言葉だったそうですが、それでも、野見山さんは「海援隊」のマネージャーと協議のうえ、ビートルズを基盤とした井上陽水さんや「チューリップ」と違い、「海援隊」は「土着」を感じさせたことから、カッコつけた言葉は似合わない、との判断をされたそうです。)
「母に捧げるバラード」が大ヒット
一方、レコード売上は相変わらずの低迷で、先に上京した井上陽水さん(「夢の中へ」)や「チューリップ」(「心の旅」)のヒットを横目に、焦りはじめていた武田さんでしたが、
1973年9月にリリースした2枚目のアルバム「望郷篇」の収録曲である、「母に捧げるバラード」の評判が良かったため、同年12月、新たに録音し直してシングルカットすると、
テレビ西日本が、開局15周年を記念して九電記念体育館で開催する「TNC・フォークソング・フェスティバル」の前座に「海援隊」をあててくれたそうで、
(「TNC・フォークソング・フェスティバル」には、ビリー・バンバン、シューベルツ、井上陽水さん、チューリップなどが出場しており、5000人以上のお客さんが詰めかけたそうです)
そこで、「母に捧げるバラード」を歌唱すると、ローカル番組でありながら、北海道を皮切りに、じわじわと人気に火がつき、最終的には全国の地方局から依頼が殺到。
結局、レコードは30万枚近く売り上げるヒットを記録し、1974年の大晦日には、「NHK紅白歌合戦」にも初出場を果たすなどし、武田さんは一躍スターダムに駆け上ったのでした。
(井上陽水さん、「チューリップ」、泉谷しげるさんが、まだ成し遂げられていなかった「紅白歌合戦」出場を、「海援隊」は一番乗りで実現したのでした)
ちなみに、この「母に捧げるバラード」は、武田さんが、お母さんのイクさんに宛てたメッセージソングの様式をとっており、短い歌詞と長い博多弁のセリフで構成されているのですが、
イクさんによると、
(歌詞の中に「鉄矢が小学校でタバコを覚え」というくだりがあるのですが)タバコのくだり以外あの歌は全部ほんと。よう私のことばとってるんですよ。
博多弁ゆうけど、私のことばは小国弁との混じり弁です。正直な博多弁じゃない。ようそこをとっとるんです。
だそうです。
「武田鉄矢の低迷時は嫁と皿洗いのバイトも幸福の黄色いハンカチでブレイク!」に続く
https://www.youtube.com/watch?v=H-BrSH18gls