坂上二郎さんとのコンビ「コント55号」が、これまでにない、激しく動き回るコントで、一躍人気を博した、萩本欽一(はぎもと きんいち)さん。しかし、やがて、「コント55号」の人気が低迷すると、萩本さんは、新たなお笑いの可能性を模索します。

「萩本欽一と坂上二郎のコント55号結成は奇跡の電話がきっかけだった!」からの続き

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「コント55号」が大ブレイク

1968年、バラエティー番組「お昼のゴールデンショー」に出演し、一躍ブレイクした、萩本さんと坂上二郎さんのコンビ「コント55号」は、

以降、

1968~1970年「コント55号の世界は笑う」
     1968年「チータ55号」
1969~1970年「コント55号の裏番組をぶっとばせ!」
     1973年「コント55号のなんでそうなるの?」
1969~1975年「みんなで出よう55号決定版!→55号決定版!」
     1969年「ウォー!コント55号!!」
     1971年「コント55号!!笑ってたまるか!?」

など、数々の冠番組を持ち、

萩本さんの、

なんで(ど~して)そうなるの!

坂上さんの、

飛びます、飛びます

コタローね

などのギャグや、「欽ちゃん走り」と言われる独特の走り方など、体を使った笑いがウケて、大ヒット。


「欽ちゃん走り」をする坂上さんと萩本さん。

また、「コント55号の裏番組をぶっ飛ばせ」の中の「野球拳」コーナーでは、アイドル歌手やグラビアタレントが1枚1枚服を脱いでいく様子が、若い世代を中心に爆発的な人気を博したのでした。

ちなみに、「フランス座」時代は、さんざん台本にないセリフを言って、萩本さんを泣かしてきた坂上さんでしたが、コンビ結成を持ちかけてきて以降は、一切、萩本さんのすることに口を出さなかったそうで、

萩本さんは、

コンビを組んでからの二郎さんというのは、決して文句を言わない人だったんだよね。僕のことを買ってくれていたの。

「俺のほうが年齢も芸歴も上なのに!」みたいなエゴが一切なく、「若い人が考えるほうがいいから」ってネタ作りも僕に任せてくれた。

ネタといっても簡単なものだったけどさ。「マラソンをする選手とコーチ」みたいな設定だけ決めておけば、2人でどうにでも転がしていけたのよ。浅草で修行していた僕たちにとっては、それが当たり前だったから。

と、明かされています。


(タップでyoutube)

「コント55号」活動休止

そんな飛ぶ鳥を落とす勢いだった「コント55号」も、やがては、「野球拳」が子どもに見せたくないハレンチな俗悪番組として、PTA、地婦連、主婦の投書などで、槍玉に挙げられたほか、1970年4月にスタートした3つの番組の最高視聴率が、

「コント55号のやるぞみてくれ!」が11%、
「コント・カチョ~ン」が7%、
「コント55号の日曜特別号」が7%

と振るわず、人気が低迷。

その後、1970年代後半になると、コンビでのコントやテレビ出演が減少し、次第に、萩本さんは司会業、坂上さんは俳優業へと、個々の活動に重点を移していき、ついに、1976年、お二人は、コンビとしての活動を一時、中断したのでした。

(そのため、新聞や雑誌には、「コント55号 解散か!?」と書きたてられ、二人の不仲説が流れたのですが、萩本さんによると、そもそもお二人は、プライベートでご飯を一緒に食べに行ったり、遊んだりするような間柄ではなく、むしろ、そういうことはやめようと(距離が近すぎて仲が悪くなることがあるため)、最初にとりきめていたため、不仲ということは一切なかったそうです)

「欽ドン!」

一方、萩本さん(ピン)はというと、1971年、「スター誕生!」で、初めて司会を務められると、

翌年の1972年には、「コント55号」での活動に限界を感じ始め、新たな笑いの可能性を探って、リスナー参加型のラジオ番組「欽ちゃんのドンといってみよう!!」を開始すると、好評で、

1975年には、「欽ちゃんのドンとやってみよう!」とテレビ番組として放送されると、視聴者からのハガキ投稿を中心に、萩本さんが得意とするアドリブを披露するほか、NGでも面白がって放送するという画期的な手法がウケ、初回放送でいきなり、17.1%と高視聴率を記録します。

(これを聞いた萩本さんは、思わず涙したそうです)

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「オールスター家族対抗歌合戦」

また、1972~1984年には、「オールスター家族対抗歌合戦」の司会を務められると、いわゆる、今で言うところの、「素人いじり」(ゲストの家族や素人の出演者にツッコむ)の芸を編み出し、その才能を開花されたのでした。


「オールスター家族対抗歌合戦」より。

ただ、実は、萩本さんは、当初、この司会を断っていたというのです。

というのも、この「オールスター家族対抗歌合戦」は、「コント55号」のとある番組でADをしていた人が、初めてディレクターとして担当する番組だったそうで、

司会を誰にするかという話になった時、テレビ局に入って以来、芸能人の知り合いが、萩本さんと坂上さんの二人しかいなかったそのディレクターは、萩本さんに司会を打診したのですが、

萩本さんは、自身が「コント55号」で段取りをぶち壊すようなコントをやっていたため、台本どおりに進行するなんて向いていないと、断られたのでした。

すると、そのディレクターは、

欽ちゃんが進行できないなら、きちんと進行できる人を隣に置けばいいじゃないですか

と、言われたそうで、それを聞いた萩本さんは、

ああ、それはいい考えだね。それだったら、なんとかなるかな

と、司会を引き受けることにしたそうで、

萩本さんは、今では当たり前となっている、司会の横にアシスタントがいるというシステムの礎を、自身が築いたことについて、

最初だったからやっぱり大変だったのよ。というのも、そのディレクターは上司からこっぴどく怒られたのね。テレビ界のタブーを破ったということらしいんだ。司会者がいるのにもかかわらず、横には別の進行係がいる。これはテレビ的にあってはないことだったらしくて。

僕もわからなくてポカーンとしちゃったの。それで理由を聞いたら、「司会者が能なしだということを、みずから言っているようなものだ」という話らしい。

そのディレクターは「いや、でも大将は仕事がやりやすいと喜んでいましたよ」と上司にも伝えたんだけど、「それはたまたま萩本さんが細かいことを気にしないだけであって、やっていることが非常識すぎる!」と取り合ってくれなかったそうです。

「謝ってこいと言われたから、とりあえず謝りにきました」ってディレクターも苦笑いしていたけどね。でも、たしかにその上司が言うこともわかるんだよ。それくらい僕も司会者としての基本能力がなかったんだから。

そうね。だからこそ「新しい司会者のスタイルだ」って言われたんだろうけどさ。そりゃ新しいに決まっているよ。司会者なのに司会できないというスタイルなんだもん。

本来は「はい、次のチームは〇〇です!」ってやるべきところを、「はい、次のチームは……誰だっけ?」とかその場のノリでしゃべるだけ。あとは隣の女の子(アナウンサー)が話を前に進めてくれるという。

僕ね、細かい段取りを覚えられないんだよ。評価されるのはありがたいことだったけど、「努力した」とか「編み出した」とかそういう話では全然ないわけ。

と、語っておられました。

「萩本欽一の昔は視聴率100%男も突然全番組降板!その理由とは?」に続く


「欽ドン!」より。柳葉敏郎がヨシ川先生!?(タップでyoutube)

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