今では当たり前となっている、番組にゲストとして出演した素人にツッコむ「素人いじり」や、司会者の横にアシスタントを置くシステムなど、テレビ業界の常識を次々と覆し、ピンとしても絶頂期を迎えた、萩本欽一(はぎもと きんいち)さんですが、突然、全ての番組を降板されます。

「萩本欽一が素人参加番組の発明者だった!司会&アシスタント方式も!」からの続き

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「視聴率100%男」と称される

「欽ドン!」「オールスター家族対抗歌合戦」などで才能を開花した萩本さんは、その後も勢いは止まらず、1981年にバラエティ番組「欽ドン!良い子悪い子普通の子」が開始すると、最高視聴率38.8%を記録するほか、


「欽ドン!良い子悪い子普通の子」より。(左から)萩本さん、西山浩司さん、長江健次さん、中原理恵さん、山口良一さん

「欽ちゃんのどこまでやるの!?」は最高視聴率42%
「欽ちゃんの週刊欽曜日」は最高視聴率31.7%
「ぴったし カン・カン」は最高視聴率37.6%
「オールスター家族対抗歌合戦」は最高視聴率28.6%

と、次々に高視聴率を記録。

各番組の合計した視聴率の数字から、「視聴率100%男」と称されるようになり、ついに、ピンでも絶頂期を迎えられたのでした。

人気絶頂期に全ての番組を降板

しかし、萩本さんは、1985年、突如、レギュラー番組をすべて降板。人気絶頂期にもかかわらず、半年間の充電期間に入られたのです。

というのも、萩本さんによると、自身の冠番組がどれも高視聴率を叩き出し、「時代を作っている」という実感はあったものの、それと同時に、「視聴率100%男」と呼ばれるようになったことで、周りから王様扱いされ、誰からも「欽ちゃん」と呼ばれなくなり、「萩本さん」あるいは「大将」と呼ばれることに違和感を覚えていったというのです。

つまり、萩本さんの中で、「欽ちゃん」「欽ちゃん」でなくなってしまい、

もう欽ちゃんの時代は終わりなんだな

と、思われたそうで、

そんな状況、自分で処理できないよ。何かを追い越そうとしているのが欽ちゃんであって、そういう姿勢がみんなから受けていたんだと思うしね。

たとえば雑誌のインタビューを受けるでしょ。すると記者の人は「なぜ視聴率30%の番組を3つも持つことができるんですか?」って尋ねてくるんだよね。

こっちは誠実に答えようとするんだけど、結局、何をしゃべっても自慢話になっちゃうのよ。そんな偉そうなインタビュー、僕自身が一番読みたくない!

自分の番組を始めたところで、最初は歌手の人からもその事務所からも相手にされなかったのよ。司会者としても超亜流だから、どこかバカにされていたしね。

だけど数字の結果を出すうちに、だんだん「欽ちゃんのやることは正しい」という空気になっていったの。これは僕にとって決して心地いいものではなかった。むしろ苦しかったです。

と、後に当時の心境について明かされています。

映画「欽ちゃんのシネマジャック」を制作するも・・・

こうして、完全に、テレビの笑いに疲れてしまった萩本さんは、映画での笑いを目指し、映画「欽ちゃんのシネマジャック」(1993年と1994年公開)を制作されます。

実は、萩本さんは、1971年に、憧れていた喜劇役者のチャールズ・チャップリンさんと話をする場を持った際、

僕は昔からチャップリンさんに憧れていて、いつかはチャップリンさんのような映画を作りたいと思っているんです。

と、伝えたことがあったそうですが、

その約束が果たせていないと、心の中でずっとひっかかっていたため、思い切ってやってみることにしたのでした。

ところが、映画は、予想以上にお金がかかり、テレビで稼いだお金が吹っ飛ぶくらいお金が必要になってしまったそうで、

これ以上やったら破産する

と、思われたほか、

映画そのものも、萩本さんが楽しんできた大衆娯楽ではなく、とにかく賞をとるための芸術寄りになっていることに違和感を覚えたそうで、最終的には、良い映画ではなく、良いテレビを作ろうと思うようになり、映画制作はやめられたのでした。

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社会人野球チーム「茨城ゴールデンゴールズ」を結成

また、萩本さんは、2005年には、プロ野球が地上波放送から撤退し、野球をする子どもたちの数が減っていることを憂いて、社会人野球チーム「茨城ゴールデンゴールズ」を結成し、監督に就任。

ヘッドコーチには、元読売ジャイアンツや西武ライオンズの投手やコーチを歴任した鹿取義隆さんを招聘し、テレビ放送もするなど、視聴率30%を狙うような感覚で、自分のチームを人気球団にしようと意気込まれたのですが、

2006年には、所属選手の極楽とんぼ・山本圭一さんが未成年と「飲酒淫行事件」を起こし、書類送検されたため、チームの解散を発表。(その後、解散を撤回)

萩本さんは、

大人数をまとめる難しさを実感した

と、語っておられます。

(最終的には、萩本さんは、2010年10月26日に監督を勇退。翌年2011年より片岡安祐美さんが選手兼任監督に就任されています)

「萩本欽一の明石家さんまやタモリとの関係は?いいとも出演拒否の理由とは?」に続く

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