終戦後のハルビンでは、ソ連兵に銃で撃たれて壮絶な苦しみを経験するほか、強制使役に駆り出されたり、婦女暴行の現場を目の当たりにしたりと、辛すぎる経験をされた、宝田明(たからだ あきら)さんですが、ついに日本へ引き揚げる日がやってきます。
「宝田明の戦争体験が壮絶過ぎる!麻酔なしで手術も!」からの続き
兄を一人残して一家でハルビンを出発
ハルビンでは、数々の悲惨な戦争体験をした宝田さんですが、1946年11月、ようやく、ハルビンからの正式な引き揚げが始まります。
ただ、3番目のお兄さん(宝田さんより4つ上でまだ中学生)は、ソ連の強制使役に連れて行かれ、行方不明のまま。
半年待ったものの、ついに、宝田さん一家(宝田さんと両親と弟の4人)も、お父さんの新潟にある生家の住所と、「必ず来い」と書いた手紙を残し、出発されます。
そして、宝田さん一家は、日本へ帰る道すがら、短冊のような紙に、
先に(故郷の)新潟県村上に帰るから 父母より
と書き、止まる駅ごとに貼って行かれたのだそうです。
赤ん坊と交換に食料を入手
すると、日本へ帰る道中では、また、悲惨な光景を目の当たりにしたそうです。
多くの人たちが、赤ちゃんが泣いても与えるミルクがなく、自分が食べる食料もなく、はじめのうちは、決められたリュックサックに詰め込まれた下着や着る物を現地の中国人に渡して、とうもろこしの茹でたものを少しもらうなど、等価交換をしていたのですが、
やがて、等価交換できる物がなくなると、殺すよりはと、
預かっててください
迎えに来ますからね
と言いながら、おしめや肌着とともに赤ちゃんを現地の中国人に渡し、その代わりに、じゃがいも2、3個とふかしたかぼちゃをもらって飢えをしのいでいたというのです。
また、宝田さん自身も、飢えていたことから、葉っぱを食べたり、イナゴのつもりでバッタを捕まえて食べたり、中国人の畑があると、夜にこっそりと入って、にんじんをひっこ抜いて泥を払って食べたりしたのだそうです。
父の故郷・新潟県にたどり着くも・・・
そんな日々を2ヶ月ほど過ごし、ようやく葫芦(ころ)島という軍港にたどり着くと、あちらこちらから集まった引き揚げ船が集結しており、宝田さん一家は1週間くらいそこに滞在。
その後、引き揚げ船として使われていた「宵月」という駆逐艦に乗せられると、艦内では、大きな握り飯をくれたのだそうです。
(何十カ月ぶりに食べさせてもらったその握り飯の味は、今でも忘れられないそうです。)
こうして、宝田さんたちは、「宵月」に乗って、渤海(ぼっかい)湾を出ると、黄海、玄界灘を通り、ついに、1947年1月、博多に上陸したのでした。
置き去りにした兄と再会
ただ、その後、お父さんの故郷である新潟県村上市にたどり着くも、生活は苦しく、宝田さんは、お母さんとともに、新潟や新発田の港で魚を仕入れては、缶カラに入れて担(かつ)いで帰り、それらを雪の上に並べて、
ホッケいかがですか
タラいかがですか
と、言いながら、売っていたそうです。
そんなある日のこと、ぼたん雪が降り、5メートル先も見えない中、黒い影が近寄ってきて、
役場どこですか
と、尋ねてきたそうです。
(髪はぼうぼうで、靴にはすべらない様に縄を巻き、軍隊の外套(がいとう)を着ていたそうです。)
それで、宝田さんらが、
役場はこの先行って右側ですよ
と、答えると、
その男は、
ありがとうございます
と、言うも、振り返って、まだこちらをじっと見ていたそうで、
お母さんと共に、
気持ち悪いわね。もう閉めましょう。
と、店じまいをしていると、その男が近づいてきたそうで、
そこで、ようやく、
あらっ。あんたお兄ちゃん?
なんと、その男は、ハルビンに置き去りにしてきた3番目のお兄さんだったのです。