テレビ番組「クイズタイムショック」の司会で、見事、再ブレイクを果たした田宮二郎(たみや じろう)さんは、その後、司会業で人気を博し、1969年には、ついに、映画界に復帰します。
千葉真一の「日本暗殺秘録」で映画界に復帰
「大映」社長・永田雅一氏により、「五社協定」を持ち出され、映画界から干されていた田宮さんですが、1969年6月に「大映」との契約が満了となると、
司会業で再ブレイクした田宮さんを映画界は放っておかず、田宮さんは、「東映」プロデューサーの俊藤浩滋さんに誘われ、千葉真一さんの主演映画「日本暗殺秘録」で映画に復帰。
「日本暗殺秘録」より。田宮さん(左)と片岡千恵蔵さん(右)。
映画俳優としての情熱を持ち続けていた田宮さんは、1971年には、奥さんを社長に個人プロダクション「田宮企画」を設立すると、映画「3000キロの罠」を制作・主演し、再び、映画界での活動をスタートさせます。
「3000キロの罠」より。加賀まりこさんと田宮さん。
(後に、田宮さんは、自分を追放した後、落ち目となった「大映」社長の永田雅一さんに鉢合わせした際、啖呵を切り、溜飲を下げたそうです)
「華麗なる一族」で万俵鉄平役を熱望するも・・・
そんな折、山崎豊子さん原作の「華麗なる一族」が映画化されるという企画が持ち上がると、
その原作を読み、主人公・万俵大介の長男である「万俵鉄平」の生き様に共感した田宮さんは、原作者である山崎さんに、ぜひ、「万俵鉄平」役をやらせてほしいと直談判。
しかし、その思いは届かず、田宮さんには、別の役柄「美馬中(みま あたる)」役が与えられたそうで、
芸能評論家の鬼澤慶一さんによると、
突然電話かかってきて「今日クランク・インだ」って。とにかく部屋へ来てくれって言うんで行きました。部屋行ってばっと座るなり、いきなりぽろぽろぽろって涙こぼして、「山本薩夫監督を俺は恨むし、憎むし、許せねえ」って怒鳴るんですよ。
「主人公は財界の御曹司で、鉄平と言ってね。猟銃が大好きな男なんだよ。最後にその男は猟銃を胸に当てて足の親指で引き金を引いて死んでいくんだよ。あれは俺の役だよ!」って怒鳴ってましたね。ありゃあもう、異常なほどだった。これだけは俺の役だ、つって泣いてたね。
とのことで、田宮さんが、異常なほどに万俵鉄平役に執着していたことが伺えます。
「華麗なる一族」より。美馬中に扮する田宮さん。
「白い影」「白い滑走路」でTVスターになるも現場では孤立
ところで、田宮さんを追放した後、落ち目となった、永田雅一氏率いる「大映」は、ついに、1971年に倒産するのですが、このことをきっかけに、日本映画界全体の観客動員数も大きく落ち込み、時代はテレビに移行。
田宮さんも、1972年には、TBSと専属契約を結び、「知らない同志」でテレビドラマに本格的に進出すると、
「知らない同志」より。(左から)田宮さん、杉浦直樹さん、栗原小巻さん。
その後も、「白い影」「白い滑走路」などの白いシリーズほか、山田太一さん脚本の「高原へいらっしゃい」で主演を務められるなど、立て続けにヒットを飛ばし、テレビドラマでも人気を博します。
「白い影」より。山本陽子さんと田宮さん。
「高原へいらっしゃい」より。田宮さん(左)と前田吟さん(右)。
ただ、「白い」シリーズは、1作目の「白い影」が当たったことから、それにあやかり、何でもタイトルに「白」を入れただけの、内容はどれも似通った筋書きのチープなメロドラマ。
それでも、田宮さんは、断りきれずにシリーズを引き受け、しかも、それが、大当たりし高視聴率を記録したのですが、真面目で責任感の強い田宮さんは、最善を尽くそうと、ストーリー作りなども含め、制作にまで口を出すようになっていったそうで、
やがて、カメラマンなどスタッフから恨みを買うようになり、現場で孤立していったのでした。
「田宮二郎の白い巨塔への人生を賭けた情熱が凄すぎる!」に続く
「白い滑走路」より。田宮さんと松坂慶子さん。