幼少期は悲惨な戦争体験をするも、終戦後はお父さんが経営する劇場が繁盛し、どんどん暮らし向きが良くなっていった、八名信夫(やな のぶお)さん。そんな八名さんは、疎開先の小学校で、進駐軍がキャッチボールをしている姿を見て、野球の虜(とりこ)になります。
「八名信夫は父親が映画と芝居の劇場を経営していた!」からの続き
進駐軍のキャッチボール姿に大きな影響を受ける
終戦後も八名さんは、1年ほどは疎開先の平島にいたのですが、そこで通っていた平島小学校に、進駐軍の兵隊さんがDDT(シラミ駆除の殺虫剤)を散布しにやってくると、その昼休み、運動場で楽しそうにキャッチボールを始めたそうで、
なんか面白そうなことやってんな、俺もやりてえ
と、グローブなど見たことのない時代に、兵隊さんが楽しそうに遊んでいる姿に、大きな影響を受けたそうで、家に帰るとすぐに、お母さんにキャッチボールの様子とグローブの形を説明。
そして、似たようなものを作ってくれ、とおねだりすると、お母さんは、早速、学校に持っていくための小学校の椅子の座布団に軍手を縫い付け、指が入るようにし、手のひらの部分は、綿を取り出して、四角いグローブを作ってくれたのだそうです。
野球に夢中に
すると、そのミットは、学校中で流行り始め、八名さんは、さつまいもを芯にして軍手を何枚もかぶせてボールを作り、校庭でキャッチボールを始めたそうですが、これが楽しくて楽しくて仕方なく、勉強どころではなくなってしまったそうで、
(先生は、「座布団は勉強のときに座るためにある、遊びのためのものではない!」と言いつつ、その顔は笑顔だったそうです(笑))
それからしばらくして、疎開先から岡山に戻ると、近所のタイヤ屋の店主にゴムボールを作ってもらい、ますます、野球に夢中になっていったのでした。
1948年、小学生の時の八名さん。前列の背の高い少年が八名さん。
ちなみに、お父さんは、もともとテニスの選手だったため、野球をやることには賛成してくれたそうですが、劇場を経営しながらも、役者になることは、八名さんが幼い頃から大反対しておられたそうです。
というのも、当時の役者というのは、劇場の楽屋に住み込み、1ヶ月ほど興行したら、また別の劇場に行く、という生活が一般的だったそうで、
役者さんというのはものすごく苦労しているんだ。食べるものも食べられんぞ、なるんじゃないぞ。
と、言われ、育ったのだそうです。
地元の強豪・岡山東商業高校で投手として活躍
さて、こうして、野球の虜(とりこ)になった八名さんは、成長し、甲子園で全国制覇したこともある地元の強豪・岡山東商業高校に進学すると、野球部に入部。
八名さんは、1塁手だったのですが、1年年下の横溝桂さん(後にプロ野球選手)とともに投手の二本柱として活躍。
在学中に甲子園出場は果たせませんでしたが、1953年春の中国大会県予選では決勝まで進み、八名さんの先発と横溝さんの継投で関西高等学校(かんぜいこうとうがっこう)の吉岡史郎さん(後にプロ野球選手)に投げ勝ち、優勝。本大会に進まれています。
明治大学に進学
そんな八名さんは、大学進学を考えるにあたり、高校の先輩の秋山登さんや土井淳さんが、明治大学で活躍しており(二人とも後にプロ野球の「大洋ホエールズ」に入団)、
八名さんが、修学旅行で神宮球場に観戦に行った際には、何万人もの観衆の中で、「おー、明治!」という応援歌を聴き、鳥肌がたったそうで、
もうこの大学しかない
と、明治大学に進学を決意。
すぐにお父さんに、
明治に行きたい
と、相談すると、
お父さんが、明治大学の名物監督・島岡吉郎さんに頼み込んでくれ、八名さんは、晴れて、明治大学に進学。野球部に入部されたのでした。
先輩からのリンチに耐えかね明治大学野球部を退部
すると、八名さんは、新入生ながら一軍に抜擢され、投手として将来を期待されていたのですが・・・
それに嫉妬した先輩から日常的に殴られるようになり、2年生のある日のこと、いつものように殴られていると、なんと、78発も殴られ、そこまでは数えていたそうですが、失神。
その後、介抱してくれた同級生から、
このままだと、お前殺されるかもしれんぞ
と、言われたそうで、
秋山さんや土井さんのように、神宮の星になりたい
との夢は持っていたそうですが、その日のうちに合宿所を脱走。明治大学も中退されたのでした。