1988年、アイドルデュオ「Wink」としてファーストシングル「Sugar Baby Love」でデビューすると、その後、「愛が止まらない 〜Turn it into love〜」「淋しい熱帯魚」など、数々のヒット曲を連発し、”アイドル冬の時代”だったにもかかわらず、一躍、トップアイドルの座に駆け上った、相田翔子(あいだ しょうこ)さん。今回は、そんな相田さんの生い立ちから芸能界入りまでをご紹介します。
年齢は?出身は?身長は?本名は?
相田さんは、1970年2月23日生まれ、
東京都東村山市の出身、
身長160センチ、
靴のサイズは21.5センチ、
血液型はB型、
学歴は、
東村山市立秋津小学校
⇒東村山市立東村山第六中学校
⇒私立文華女子高校
趣味は、料理、陶芸、スキー、
ちなみに、本名は、相澤敬子(あいざわ けいこ)(旧姓・鈴木)です。
少女時代はお転婆でいたずら好きな女の子だった
相澤さんはタイル職人のお父さんのもと、2人姉妹の妹として誕生すると、子供の頃は、のどかな田園地帯の中、男の子と一緒にターザン遊びをしたり、水筒と百円玉を持って電車で数駅先に行くという冒険をするような、活発でお転婆な女の子だったそうで、
(そのため、小学校時代は、通知表に毎回必ず「落ち着きがない」と書かれていたそうです)
中学生の時には、職員用の電話機に正露丸を仕込んだり、屋上から水風船を落とすなど、よくいたずらをしたそうで、何度も先生に叱られ、職員室の前に正座させられたそうです。
女子プロレスラーに憧れ「全日本女子プロレス」のオーディションに何回も応募していた
そんな相田さんは、中学生の頃は、クラスメイトによくプロレス技をかけるなどプロレス好きで、女子プロレスラーの長与千種さんとライオネス飛鳥さんによるタッグチーム「クラッシュギャルズ」に憧れ、女子プロレスラーを目指して、入団テストを受けるためにトレーニングに励んだそうです。
(友情やチームワークにしびれ、自身も技を磨いてリングに立ちたいと思ったそうです)
ただ、全日本女子プロレスのオーディションに応募するも、年齢が足りずに不合格。
(「また、挑戦してください」という葉書が届いたそうです)
その後も、何度かオーディションを受けたそうですが、全て不合格だったそうで、仕方なく、プロレスラーになることは諦めたのだそうです。
友達に誘われて参加した歌のオーディションでモデルにスカウトされる
そんな中、中学2年生(14歳)の時、友達が相田さんの名前で歌のオーディションに応募し、「一緒に行こう」と誘われたそうで、
相田さんは、人前で戦うこと(リングに立つこと)には興味があったものの、歌うことにはまったく興味はなかったそうですが、
当時、歌やCM、映画のオーディション雑誌が流行っていたこともあり、その流れに乗って、一度は記念に受けてみてもいいかもと思い、オーディションに参加することに。
そして、オーディションでは、松任谷由実さんの「ダンデライオン~遅咲きのたんぽぽ」という歌を歌ったそうですが、緊張のあまり、蚊の鳴くような声しか出せずに不合格になってしまったそうですが、その時、モデル事務所のマネージャーから、「モデルをやってみないか」とスカウトされたのだそうです。
モデルをしながら歌手を目指して歌のレッスン
こうして、芸能プロダクションに所属した相田さんですが、やはり、人前に出ることが苦手だったため、作り手の方を希望し、作詞作曲のレッスンも受けていたそうですが、最終的には、結局、歌を歌うことになり、歌のレッスンを受け始めることになったそうです。
ただ、お父さんが芸能界入りを反対したことから、事務所と話し合った末、当面はモデルとして活動することになり、歌手デビューは、高校進学後にすることになったのだそうです。
「相田翔子は高校時代アルバイトをするも接客業が苦手だった!」に続く