繊細で知的な演技を持ち味とし、数多くの映画やテレビドラマで、名脇役として活躍された、田村高廣(たむら たかひろ)さん。今回はそんな田村さんのお父さんとご兄弟についてご紹介します。

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年齢は?出身は?身長は?本名は?医師?

田村さんは、1928年8月31日生まれ、
京都府京都市右京区太秦のご出身、

身長170センチ、

学歴は、
京都三中(現・京都府立山城高等学校)
⇒同志社大学経済学部卒業

ちなみに、「田村高廣」は本名で、医師の田村高廣さんは、同姓同名の別人です。

父親は阪東妻三郎

田村さんのお父さんは、映画俳優の阪東妻三郎(ばんどう つまさぶろう)さんです。


阪東妻三郎さん。

坂東さんは、1916年、16歳の時、歌舞伎俳優の11世片岡仁左衛門さんの内弟子となられるも、雑用ばかりでなかなか舞台に上がらせてもらえなかったことから、 因襲と家柄優先の歌舞伎の世界に限界を感じ、1922年には、映画俳優に転身。

翌年の1923年には、映画「鮮血の手型」に出演されると、一躍脚光を浴び、1924年には、「恐怖の夜叉」「討たるる者」「江戸怪賊伝 影法師 前・後篇」「墓石が鼾する頃」などで、ニヒルで反抗的な主人公を演じて、たちまちスターダムに上り詰め、「阪妻(バンツマ)」の愛称で親しまれるようになりました。

なかでも、「江戸怪賊伝 影法師 前・後篇」は大好評で、時代劇俳優として、不動の地位を確立されました。

ただ、1953年、「脳内出血」により、51歳の若さで急逝されています。

兄弟は?

田村さんは、4人兄弟の長男で、3人の弟さんがいらっしゃいます。

まず、すぐ下の弟さん(次男)は、10歳年下の田村俊磨(たむら としま)さんで、1960年、木下恵介監督の映画「笛吹川」で高廣さん演じる定平の少年時代を演じるなど、映画に出演されていたこともあるのですが、高廣さんや4男・正和さんのマネージャーを経て、芸能界を引退。

その後に、「田村産業株式会社」を設立されています。


田村俊磨さん。

(現在、「田村産業株式会社」「タムサプライヤ」と改称し、水防止剤、屋外用テーブルチェア、パラソル、健康志向食品、炭酸泉装置、除菌・消臭剤などを取り扱われているそうです。)

2番目の弟は田村正和

また、2番目の弟さん(三男)は、俳優の田村正和(たむら まさかず)さんで、1960年、高廣さん主演の映画「旗本愚連隊」を見に行った際、「松竹」にスカウトされて、この映画に端役として出演されると、高校在学中の1961年、「永遠の人」で本格的に映画デビュー。以降、立て続けに映画に出演されました。


田村正和さん。

ただ、当初はぱっとせず、1967年には、「松竹」を退社してフリーとなり、その後も、なかなか日の目を見ることがなく、脇役が続いていたのですが、

1970年、テレビドラマ「木下惠介・人間の歌シリーズ『冬の旅』」で人気が出ると、1972年には、テレビ時代劇「眠狂四郎」で主演に抜擢され、たちまちブレイク。

1980~1990年代には、「パパはニュースキャスター」「熱くなるまで待って!」「パパは年中苦労する」「ニューヨーク恋物語」など、ホームドラマやトレンディドラマに数多く出演して人気を博すと、

1994年には、「古畑任三郎」で主人公の古畑任三郎役を演じ、ドラマはロングランヒットを記録しています。

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末弟は田村亮

そして、一番末の弟さん(四男)は、俳優の田村亮(たむら りょう)さんで、1965年、高校3年生の時、映画「破れ太鼓」でデビュー。


田村亮さん。

当初は、俳優になるつもりはなかったそうですが、周囲からの勧めで、1966年、大学に在学している間だけ、との約束で、「暴れ豪右衛門」に出演されると、

以降、あれよあれよと、映画やテレビドラマに出演するようになり、主に、「土曜ワイド劇場」などの2時間ドラマや時代劇に多数出演されています。

「田村高廣の若い頃は勝新太郎共演の兵隊やくざでブレイク!」に続く

「破れ太鼓」より。(左から)高廣さん、俊磨さん、正和さん、亮さん。

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