「舌ガン」と「解離性大動脈瘤」という2つの大病に次々と襲われる夫の石原裕次郎さんを献身的に看護されていた、石原まき子(いしはら まきこ)さんですが、またしても、裕次郎さんに病が襲いかかります。
「石原まき子(北原三枝)が語る石原裕次郎の闘病秘話!」からの続き
石原裕次郎が肝細胞ガンになるも本人には告知せず
こうして、2度の大病を乗り越えた、夫・裕次郎さんでしたが、1984年7月、原因不明の高熱が出たため、慶應義塾大学病院に再び入院。
実は、裕次郎さんは、その1ヶ月前に定期検診を受けており、その時、まき子さんには、医師から「肝細胞ガン」だと告げられていたそうで、
まき子さんは、
医師に呼ばれて宣告されるんです。石原裕次郎に知らせるかどうか、ということが当時延々と私の中の闘いになるわけです。
私は絶対に知らせない方で、知らせる方も何人かいて。知らせた方が闘えるというんです。私は一番、裕次郎の弱さを知っていますから。弱い性格の部分を…彼は闘えないと思ったんです。
と、本人に対して告知をするかどうかの決断を迫られた結果、告知しないことを選択されたのでした。
入退院を繰り返す日々
その後、裕次郎さんは、翌月の8月に退院し、9月から10月までハワイで静養すると、翌年の1985年5月には、「石原プロモーション」のメンバーである、神田正輝さんと松田聖子さんの結婚式で仲人を務めるまでに回復。
1986年5月には、微熱が続いたため、慶應義塾大学病院に入院するも、(この時、「肝内胆管炎」と発表されました)7月には退院。
9月には福井県芦原温泉で静養し、12月にはハワイで療養されていたのですが・・・
死因は肝臓ガン
療養先のハワイで体調を崩し、1987年4月、急遽ハワイから帰国されると、慶應義塾大学病院に検査入院。
カテーテル治療を行い、5月2日には一旦退院されるのですが、高熱のため、5月5日に再び入院すると、「幻覚症状(肝性脳症)」を発したそうで、
まき子さんは、
ベッドルームでいきなり起き上がって、「治療なんかいらないんだ」と叫ぶんです。その時に私は、手を握ってさすってあげました。
そういう状態でまたスーッと眠るんです。そういうことが何日も続くんです。最後まで知らせませんでした…
と明かされているのですが、
1987年7月17日、まき子さんが、
頑張るんですよ
とかけた声に、2回うなずいた裕次郎さんは、その後、静かに息を引き取られたのでした。
もう一つの遺言
ところで、裕次郎さんは、
映画を製作してほしい
という遺言を、まき子さんに遺していたそうで、
まき子さんは、葬儀の際、
本日の葬儀をもちまして、私どもは故人の遺言ともなりました“映画製作”に入りたいと思います
と、挨拶されていたのですが、
まき子さんは、後に、
息が途絶える少し前に、「俺が死んだら石原プロをたためよ」と言われたんです
と、実は、もう一つ別の遺言があったことを明かされています。
まき子さんは、裕次郎さんが他界されてから、裕次郎さんとのほかの約束はずっと守り続けて来られたのですが、この言葉だけは唯一守らなかったというのです。
というのも、
みんな必死でした。裕さんをなんとか戻そうと、病から戻そうと、その姿を見たらとても言えませんでした
と、「石原プロモーション」には、裕次郎さんの信条を受け継いでいる人が大勢おり、それを誰よりも感じたまき子さんは、とても、「石原プロモーション」をたたむとは言えず、存続されてきたのでした。
石原裕次郎への尽きぬ想い
ちなみに、まき子さんは、裕次郎さんの看病が続く中、
周りの人に「頑張り次第で治る」って言ってもらったの。それで自分を洗脳したのね。いつも一緒だから、勘のいい裕さんに(本当の病状を)察知されると困るから。
と、周囲の人たちの力を借りて、自身を鼓舞されていたことや、看病で疲れ、裕次郎さんに呼ばれても返事ができなかったこと、
そして、
ハワイでの療養中にね、ちょうどタバコに火をつけようとしたところを見つけてタバコをむしり取ったり、帰国の機内で「ワインを飲んでいいかな」と聞かれ、機内で体調を崩すと大変だから「帰ったら飲めますよ」とかね。
そのときの残念そうな顔が今でも時々ちらつくの。飲ませてあげればよかったかなってね。今でも自分を責めることがあります。その半面、よくここまで頑張ってきたな、自分をほめてあげたい、と思うときもあります。
と、今もなお尽きることのない裕次郎さんへの想いを語っておられます。
(まき子さんは、1988年7月、裕次郎さんとの出会いから最期までを綴った、著書「裕さん、抱きしめたい」を出版されています)
さて、いかがでしたでしょうか。
石原まき子(北原三枝)さんの、
- 年齢は?出身は?韓国人?本名は?
- 少女時代は弟と二人きりで疎開
- 黄疸の弟のためにシジミを取り歩く日々
- 祖父が他界
- 両親のいる東京が大空襲
- 母と再会
- 若い頃は「日劇ダンシングチーム」から松竹に
- 日活へ移籍~看板女優として活躍
- 石原裕次郎との共演映画「狂った果実」が大ヒット~「ドル箱コンビ」として
- 出演作品(映画)
- 出演作品(テレビドラマ)
- 石原裕次郎とは出会った時から両想いだった
- 石原裕次郎とアメリカへ逃避行
- 石原裕次郎との結婚時の約束とは?
- 石原裕次郎が「舌ガン」と「解離性大動脈瘤」
- 厳しい食事制限と看病で1日3時間睡眠
- 実は神田正輝と舘ひろしが食べていた
- 石原裕次郎が肝細胞ガンになるも本人には告知せず
- 入退院を繰り返す日々
- 死因は肝臓ガン
- もう一つの遺言
- 石原裕次郎への尽きぬ想い
について、まとめてみました。
すでに自身がスター女優として活躍していたにもかかわらず、まだ無名の新人だった石原裕次郎さんに一目惚れすると、その後は、アメリカ逃避行を経て、結婚後引退、家庭で裕次郎さんのサポート、裕次郎さんの晩年は看病と、その後の人生を全て裕次郎さんに注ぎ、今もなお裕次郎さんに想いを馳せる石原まき子さん。
すでに80代も後半に差し掛かる高齢ですが、お体を大事にして、末永く美しい生き様を見せていてほしいものです。
「石原まき子(北原三枝)の生い立ちは?弟と二人きりで疎開していた!」