1956年、「社長シリーズ」 の社長役でブレイクすると、以降、数多くの、映画、テレビドラマ、舞台に出演し、喜劇もシリアスもこなせる俳優として、国民的人気俳優となった、森繁久彌(もりしげ ひさや)さんですが、プライベートはどのようなものだったのでしょう。今回は、そんな森繁さんの奥さんや子供たち、そして黒柳徹子さんとの関係についてご紹介します。

「森繁久彌は「知床旅情」が加藤登紀子のカバーでミリオンセラーとなっていた!」からの続き

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妻とは早稲田大学時代に知り合っていた

森繁さんの奥さんは、萬壽子さん(一般女性)というそうですが、森繁さんが早稲田大学の「演劇研究部」で演劇活動をしていた時、東京女子大学から数人の女子大生が入部することになったそうで、そのうちの一人が萬壽子さんだったそうです。

ちなみに、1939年に森繁さん(26歳)がNHKのアナウンサーとして満州に赴任した際には、すでに一人目のお子さんもいたようなので、萬壽子さんとは、早くに結婚していたようです。

また、森繁さんは、大変な愛妻家で、結婚生活は穏やかで順調だったようですが、萬壽子さんは、1990年、76歳で他界されています。

娘は?

森繁さんと奥さんの間には、女の子1人と、男の子2人が誕生しているそうで、長女は、昭子(あきこ)さんというそうですが、情報がないことから、芸能関係者ではないようです。

息子(長男)は?

また、長男は、森繁泉(もりしげ いずみ)さんというそうで、株式会社賀茂カントリークラブの社長を務めていたそうですが、1999年に、肝臓ガンにより、58歳で他界されており、

森繁さんは、当時、取材に対し、

(泉さんが子供の頃のことを思い返し)壁に落書きをしたので引っぱたいてねえ・・・

毎日、死んだせがれのことばかりを思う。達者なのか

と、語っています。

ちなみに、森繁さんは、2007年、自ら「最後の仕事」と銘打った朗読DVD「霜夜狸(しもよだぬき)」を発売しているのですが、これは、息子を亡くした年老いた父親があの世の息子を案じるという物語だそうです。


霜夜狸

息子(次男)は?

そして、次男は、1942年12月10日に誕生した、森繁建(もりしげ たつる)さんで、株式会社賀茂カントリークラブの代表取締役会長を務めていたそうですが、現在は不明です。


次男の森繁建さん。

ちなみに、建さんは、2009年にお父さんの森繁さんが他界すると、翌年の2010年、姉の昭子さんとともに、お父さんとの思い出を余すことなく語り尽くした、著書「人生はピンとキリだけ知ればいい・・・わが父、森繁久彌」を出版しています。

(建さんと昭子さんが会話形式で森繁さんを振り返るという形になっているそうです)


人生はピンとキリだけ知ればいい・・・わが父、森繁久彌

「徹子の部屋」の第1回目のゲストだった

ところで、森繁さんは、あの黒柳徹子さんの長寿番組「徹子の部屋」の第1回目(1976年)のゲストだったそうで、

黒柳さんによると、どのようにして番組を進めていけばいいか考えがまとまらない状態の中、

森繁さんに、

(ゲストに)自由に話したいことを、話してもらって、楽しければいいんだよ

と、言ってもらい、安心したとのことでした。


「徹子の部屋」より。森繁さんと黒柳徹子さん。

(この番組では、黒柳さんがゲストから秘め事を上手に引き出すと評判ですが、それも、第1回のゲストの森繁さんの影響が大きかったのかもしれません)

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黒柳徹子をしばしばナンパしていた

そんな森繁さんは、黒柳さんと初めて出会ってから、60年もの間、しばしば、黒柳さんを誘っていたようで、

黒柳さんは、森繁さんが亡くなる3年前、偶然、道で森繁さんに会った時のことを、

道に大きな黒い車があって、中をのぞいたら森繁さんだった。

声をかけたら、おじいさんとは思えない力で、私をぐいっと車の中に引きずりこんで、「ねえ、1回どう?」って。

私、60年前に初めてお会いした時から、最後まで言われ続けた。 その時に「今度ね」って言ったら、「君は今度今度って言って、いつまでもダメじゃないか」って。

(長く待たせて)「くしゃくしゃになったら僕、嫌よ」って。 「私だって嫌ですよ」って言って別れたのが最後だった。

と、語っています。

ちなみに、森繁さんは、黒柳さんだけではなく、銀座で女性を口説くときも、相手の膝の上に手を置いて、「1回だけ、1回だけ」というのが、お決まりのセリフだったそうです(笑)

「森繁久彌には養女(黒人と日本人のハーフ)がいた!」に続く

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