社長シリーズ」「駅前シリーズ」で大ブレイクすると、以降、数多くの、テレビドラマ、映画、舞台に出演し、ミュージカル「屋根の上のバイオリン弾き」は、900回もの上演を重ねた、森繁久彌(もりしげ ひさや)さんですが、歌手としても、NHK紅白歌合戦に7年連続で出場しています。

「森繁久彌のデビューからの出演映画ドラマ舞台を画像で!」からの続き

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「知床旅情」が加藤登紀子のカバーでミリオンセラーの大ヒット

森繁さんは、歌手としても活動していたそうで、「知床旅情」を作詞・作曲すると、1962年の「第13回NHK紅白歌合戦」では、「しれとこ旅情」として、森繁さん自身が歌唱し、1965年には、シングル「知床旅情」としてリリースしています。


知床旅情

そして、1970年には、加藤登紀子さんによってカバーされると、徐々に人気に火がつき、翌年の1971年には、オリコンヒットチャートで7週連続1位を獲得。累計140万枚を売り上げる大ヒットとなっています。


加藤登紀子さんのカバーによる「知床旅情

「知床旅情」の原曲は自作曲「オホーツクの舟歌」だった

ところで、この「知床旅情」、もともとは、森繁さんが、自作曲「オホーツクの舟歌」に、知床への思いを込めて、新たな歌詞を載せて作ったものだったそうで、

森繁さんが、1960年、映画「地の涯に生きるもの」の撮影で、知床半島の羅臼(ラウス)村(現・羅臼町)に長期滞在して、7月にロケが終了し、町を出発する日の朝、自作曲「さらばラウスよ」(後に「しれとこ旅情」⇒「知床旅情」)という歌の歌詞を、当時滞在していた栄屋旅館(現在のホテル栄屋)の前に貼り出し、

日本は人情の機微が紙より薄いと言われていますが、僕は羅臼の人情に触れました。お世話になった皆さんの後々のために歌を作りました。この歌を歌って別れましょう

と、言って、ギターを弾きながら歌ったそうで、それが、「知床旅情」となったのだそうです。

(森繁さんは、集まった人々にも歌を教え、やがて、歌声は大合唱となったのだそうです)

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NHK紅白歌合戦に7年連続出場

ちなみに、森繁さんは、その後も、

1963年「おらが唄さ」
1969年「森繁久彌 魅力のすべて」
1971年「しれとこ旅情」
2009年「我がセンチメンタルの碑」※追悼盤

と、LPレコードを発売し、

1959年から1965年まで、歌手としてNHK紅白歌合戦に連続出場すると、

1959年(第10回)「カチューシャ」
1960年(第11回)「フラメンコ・ソーラン節」
1961年(第12回)「五木の子守唄」
1962年(第13回)「しれとこ旅情」
1963年(第14回)「フラメンコかっぽれ」
1964年(第15回)「戦友」
1965年(第16回)「ゴンドラの唄」

を、歌唱しています。

「森繁久彌の妻は?黒柳徹子と?息子は?娘は?」に続く

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