ついに、7年に渡る市川崑監督との不倫関係を清算し、1961年、歌舞伎の名門出身の萬屋錦之介さんと結婚された、有馬稲子(ありま いねこ)さんですが、セレブ婚とはいえ、梨園の妻として、昼夜問わずの家事労働に疲れ果ててしまいます。

「有馬稲子が市川崑監督に愛想をつかした驚くべき理由とは?」からの続き

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萬屋錦之介とセレブ婚

こうして、市川さんとの7年の歳月にピリオドを打った有馬さんは、1961年11月27日、萬屋錦之介さんと結婚式を挙げます。

すでにトップスターだったお二人の結婚式は、とても豪華で、ウェディングケーキは高さ2メートル、当時の値段で16万円だったそうです。

(現在の貨幣価値では約4倍とのことなので、64万円!)

さらに、萬屋さんのお父さんからは、京都に900坪の土地をプレゼントされ、そこに、150坪の豪邸を建て、プールと体育館も作り、庭には有馬さんの大好きなバラを70種類も植えるなど、セレブな新婚生活が始まったのでした。

(ちなみに、萬屋さんと結婚する時には、作家の川端康成さん夫婦が親代わりを買って出てくれたそうで、梨園という由緒正しい家柄出身で大勢の親戚がいた萬屋さんに対し、いろいろな事情があり、良い親戚がいなかった有馬さんも、川端さんのおかげで、胸を張って、お嫁に行くことができたのだそうです。)


当時の萬屋錦之介さんと有馬さん。

昼夜問わず家事に追われる結婚生活

しかし、いざ新婚生活が始まると、梨園の妻(というより、萬屋さんの妻)はとても大変なものだったそうで、

萬屋さんは、1年365日毎日働いており、撮影が終わると、毎晩、スタッフ12~13人を連れ帰ってきたため、有馬さんが全員分の食事を準備をしなければならず、

そのうちの何人かは泊まっていったことから、翌朝も全員分の朝食を作らなければならず、ようやく、朝食が終わり、萬屋さんたちを送り出した後は、お姑さんやお兄さんの朝食を作らなければならなかったそうで、

そんな生活を毎日続けていると、何事にも全力投球の有馬さんは、家事の力の抜き方が分からなかったことから、次第に疲れを感じるようになっていきます。

舞台「浪花の恋の物語」の出演オファー

それでも、家事に忙殺される毎日を続けていた有馬さんですが、結婚から2年が経とうとしていた時、「浪花の恋の物語」の舞台出演のオファーが舞い込みます。

実は、中村扇雀(現・坂田藤十郎)さんが、映画「浪花の恋の物語」(中村錦之助さんと有馬さん共演)を観て、どうしても、有馬さんと舞台で「浪花の恋の物語」をやりたいと、「東宝」に1年も粘り、

お姑さん(夫・萬屋錦之介さんのお母さん)にも話をしに行かれたそうですが、お姑さんは、「絶対にダメ」と、有馬さんの女優業への復帰を認めてはくれなかったそうです。

ただ、扇雀さんが、あまりにも熱心に説得されたため、ついに、お姑さんは折れ(同じ梨園で断ってばかりいるのもまずいと思われたのか)、これ1本だけ、という約束で出演を許してくれたのでした。


映画「浪花の恋の物語」より。萬屋錦之介さんと有馬さん。

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萬屋錦之介と離婚

すると、有馬さんにとって、「宝塚歌劇団」以来であった、この久しぶりの舞台は大好評を博し、すぐに再演が決定。

と、同時に、有馬さんは、舞台女優としても注目を集めることとなり、「浪花の恋の物語」の再演のほか、「奇跡の人」では、ヘレン・ケラーを導くサリバン先生、世界で初めて舞台化された「風と共に去りぬ」では、主役のスカーレット・オハラを演じられるなど、舞台女優として多忙を極めるようになり、

この作品で私は舞台女優になっちゃったわけですからね、変な言い方ですけど。でも皮肉なものですね。今の時代と違って、私の時代は結婚したら、妻は夫や婚家に尽くすのが当たり前でしたからね。

錦ちゃんは私とお姑さんの板挟みになって悩んだと思います。だから私は自分が身を引くのが最善と考えるようになったんですけどね。

錦ちゃんは本当に良い人でした。台本を三つぐらい常に持って走り回っていました。働きすぎたんですよね。だから病気になっちゃったんですよ(錦之助さんは1997年に他界)。かわいそうに。

今思うと本当に泣けてくるぐらい良い人で、良い役者だったけど、良い亭主ではなかった。経済のことはまったくわからない人で、船とアメリカ車を同時に買っちゃうんですから。

と、舞台女優に専念するため、1965年、萬屋さんと離婚されたのでした。

(なんと、萬屋さんとの3年7ヶ月の結婚生活で、二人きりで食事をしたことは1度もなかったそうです)

「有馬稲子の2人目の夫との離婚理由は?多額の借金を背負わされていた!」に続く

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