「東村山音頭」をきっかけに、「カラスの勝手でしょ」「ピカピカの1年生」「ヒゲダンス」「最初はグー」などのギャグが、子どもたちを中心に日本中に大ブームを巻き起こした、志村けん(しむら けん)さん。この志村さんの快進撃は、「8時だョ!全員集合」終了後もまだまだ続きます。
「志村けんのドリフ加入は加藤茶の後押しのお陰だった!」からの続き
「8時だョ!全員集合」が終了
志村さんの加入で、爆発的な人気を博した「8時だョ!全員集合」も、1981年頃からは、マンネリと言われ始め、
加藤茶さんによると、
追いまくられて、長さんが精神的にまいっちゃった。ネタは志村とオレで考えるようになった。
と、リーダーのいかりや長介さんも、「疲れた」「引退したい」と漏らし始めたそうで、
視聴率は、裏番組の「オレたちひょうきん族」に抜かれるようになり、ついに、1985年には、生放送の限界などもあり、放送が終了します。(放送開始から、実に16年803回続きました)
「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」で再び大ブレイク
それでも、志村さんは、休む間もなく、後番組として、1986年1月から、加藤さんと共に「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」をスタートさせると、
「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」より。加藤茶さん(左)と志村さん(右)。
お二人の絶妙な掛け合いや、ギャグ要素たっぷりのコメディドラマなどが視聴者にウケ、「8時だョ!全員集合」時代には人気を逆転された「オレたちひょうきん族」から徐々に人気を奪回。
そして、同年暮れには、ビートたけしさんが「フライデー襲撃事件」を起こすのですが、これが影響し、1989年に「オレたちひょうきん族」が打ち切りに追い込まれると、
「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」は、かつて、「8時だョ!全員集合」で奪われた「土曜8時の王者」の座を完全に奪回したのでした。
「志村けんのだいじょうぶだぁ」「志村けんのバカ殿様」などの冠番組が人気
その後、志村さんは、自身のみをメインとした初の冠番組「志村けんのバカ殿様」(1986~2020)を皮切りに、
「志村けんの失礼しまぁーす!」(1986~1987)
「志村けんのだいじょうぶだぁ」(1987~1993)
と、次々に冠番組をスタート。
「志村けんのバカ殿様」より。
「志村けんのだいじょうぶだぁ」では、「ザ・ドリフターズ」のメンバーではない、田代まさしさん、松本典子さん、桑野信義さん、いしのようこさんらをレギュラーとし、「変なおじさん」のような、「ザ・ドリフターズ」時代とは一線を画した独自のコントスタイルを確立するなど、第2の人気ピークを迎えると、
1992年頃からは、ゴールデンタイムの全国ネット番組が終了するなど、以降、数年間にわたり、一時的に人気が低迷するも、
1997年以降は、バラエティ番組のゲストとして呼ばれることが多くなり、子どもの時にテレビで志村さんを見て育った芸能人から再び注目され始めたことで、第3の人気ピークを迎えたのでした。
(ただ、以前のピーク時とは異なり、重鎮として扱われるようになったことから、全盛期に比べると露出度は穏やかになりました)
死亡説で本人が記者会見
ところで、1996年、突然、志村さんの死亡説が流れています。
しかも、その死因まで、
- 群馬県の赤城国際カントリークラブで、急性心筋梗塞を起こし急死した
- 尾瀬を観光中に尾瀬沼に落ちて溺死した
- 宇都宮のがんセンター(栃木県立がんセンター)で煙草の吸いすぎが原因の肺ガンで死んだ
- 栃木県の国道で交通事故に巻き込まれて事故死した
と、すごく具体的で、
その結果、騒動があまりにも大きくなったことから、志村さんご自身が、記者会見で健在をアピールするという異例の事態に(笑)
これが、芸能ニュースではなく、社会ニュースで取り扱われたというから、騒動がいかに大きいものだったか、想像できます。
ちなみに、このような「死亡説」が流れた原因は、志村さんのメディアにおける露出が以前よりも減り、志村さんをあまり見かけなくなった視聴者が流したものだと言われているのですが、インターネットが今ほど普及していない時代のこの拡散力、この点でも志村さんの凄さが分かります。
「志村けんはいしのようことだいじょうぶだぁで交際していた!」に続く