相方・カーキーさんとコンビを結成するも、カーキーさんの心の病が原因でコンビを解消せざるを得なくなってしまった、ビートたけしさんですが、その後、兼子二郎さん(後のビートきよし)から声をかけられます。
「ビートたけしの下積時代の相方カーキーが自殺未遂した理由とは?」からの続き
兼子二郎(きよし)との出会い
毎日、朝まで語り合い、劇場の屋上でコントの練習に明け暮れるほど、仲の良かったカーキーさんとコンビを解消せざるを得なくなってしまったたけしさんですが、
その後まもなく、同じ深見千三郎さんの門下生で、2年先輩だった兼子二郎(後のビートきよし)さんから、漫才コンビを組まないかと誘いを受けます。
兼子さんは、浅草のストリップ劇場「ロック座」から「フランス座」に移籍し、深見さんに師事していたのですが、
フランス座でずっとやっていても世に出ていけないし、どうしようかな
と、思っていたそうで、
そんな折、浅草の松竹演芸場に観に行くと、舞台には、当時、テレビで大人気だった漫才コンビ「Wけんじ」さんが出演しており、
この舞台に出たらテレビに出られるんじゃないか、これは漫才をやるしかない
と思い、コントから漫才に転向しようと、漫才をやるための相方を探していたのです。
一方、たけしさんはというと、コント志向だったため、当初は漫才を渋ったそうですが、当時、「フランス座」は経営難で給料の支払いにも事欠くようになっていたうえ、相方(カーキーさん)が入院し、コンビを解消しなければならなかったこと、
さらには、漫才はスーツ一つで司会から何からすべてできてしまうため、お金がかからないことに魅力を感じ、コンビを組むことを了承したのでした。
(ただ、たけしさんは、コントから漫才師に転向したことで、師匠の深見さんから即刻破門されてしまったそうです)
漫才コンビ「松鶴家次郎・家二郎」は全くウケず
こうして、たけしさんは「松鶴家次郎」、兼子さんは「松鶴家二郎」名義で活動を開始し、当初は、兼子さんがネタを作り、正統派の掛け合い漫才をしていたのですが、これが全くウケず、「フランス座」にいた頃よりも、生活が苦しくなってしまいます。
そのため、兼子さんが、一時期、漫才コンビ「コロムビア・トップ・ライト」のライトさんの付き人をして生活をしのぎ、その縁で、「空たかし・きよし」と名乗って営業に出るようになったほか、地方のキャバレーなども巡るようになります。
(漫才コンビ「コロムビア・トップ・ライト」一門は皆「青空」の家号を名乗っていたのですが、兼子さんは、ライトさんだけの付き人なので「空」だけとなったそうです)
酔っ払ってステージに上がっていた
そんなお二人ですが、兼子さんによると、ストリップ劇場にくる客と言うのは、女性の裸が見たくて、笑いたくて来ているから、笑わせるのは簡単だと思っていたものの、現実はまったくウケなかったことから、
たけしさんは、この仕事に嫌気が差し始め、出番をすっぽかすほか、酔っぱらい客ばかりを相手にしていたため、たけしさん自身も、酔っ払って舞台に上がることが多くなっていったそうです。
さらに、たけしさんは、店を誹謗したり、客やホステスにケンカをふっかけることがあったことから、度々、舞台から降ろされたそうで、その都度、兼子さんは、場繋ぎ用として用意していた奇術ネタで、しのいでいたのだそうです。
酔っぱらい客とのやりとりがツービートスタイルのきっかけに
そんなある日のこと、舞台に出ている時、
酔っ払った客から、
おい、お前らさ、漫才なんかやめて飲みに行こう
と、言われ、
たけしさんが、
飲みに行こうったって、金は持ってるのかよ
と、返すと、
その客は、
ほら、1万円あるよ
と、ポケットから1万円出したそうですが、
たけしさんはバーっと舞台を駆け下りて、
酒なんか飲まなくていいから、この金くれ!
と、その1万円を取り上げたというのです。
これに、当然、その酔っぱらいは、
金返せーッ
と、言ったそうですが、このやりとりがお客さんに大ウケ。
これに、たけしさんと兼子さんは手応えを感じたそうで、徐々に、後の「ツービート」のスタイルにつながっていったのでした。
「ビートたけしのツービート時代は放送禁止用語連発の暴走危険ネタで人気に!」に続く