時代が大正から昭和、サイレント映画からトーキー映画へと移りゆく中、剣戟スターとして活躍された、阪東妻三郎(ばんどう つまさぶろう)さんですが、そんな阪東さんの奥さんとはどんな方だったのでしょうか。今回は、阪東さんの奥さんほかご家族についてご紹介します。
「阪東妻三郎の死因は脳内出血!中耳炎がきっかけだった?」からの続き
妻は?
阪東さんは、1927年、静子さんという一般の方と結婚されているのですが、
「株式会社嵯峨映画」の古市義人さんによると、
私の父、古市良三(通称:収)がこの会社の創立者です。父は四国の高松市、母は丸亀市の出身です。父は東京電機大学夜間部を卒業し電気工事の資格を持っていました。
俳優・阪東妻三郎のスポンサーであった大分県出身の立花良介さん(当時は財閥) が撮影所を作るのに電気技術者が必要だとのことで、遠縁にあたる、電気工をしていた父を京都に呼んだのです。
そして阪東妻三郎に嫁が必要とのことで、父と一緒に育った静子さんが嫁ぐことになりました。(良三の父・古市粂太郎と静子の父・尚次郎は兄弟)
とのことで、阪東さんと静子さんはお見合い結婚だったようです。
静子さんと阪東さん。
また、古市さんは、
阪妻さんの出演ギャラは常にキャッシュで、親父が運んだときはリヤカーにいっぱいになって運んだと言っていました。
親父の駈け出しの頃(私が生まれたとき)、住まいは現在の東映撮影所の前にあり、その後JR嵯峨駅の裏に引っ越しました。 ここでは阪妻さんと家が隣同士(家の所有者は阪妻)となり田村三兄弟(実際は四兄弟)と共に私は育ちました。
とも、明かされていました。
長男は田村高廣
そんな、お二人の間には、4人の子供(全員男の子)が誕生しています。
まず、長男は、俳優の田村高廣(たむら たかひろ)さんで、高廣さんは、同志社大学卒業後、いったん、商社に就職されるのですが、
1953年、阪東さんが急逝されると、周囲の強い勧めにより、阪東さんが最後に所属していた「松竹」に入り、翌年1954年には、映画「女の園」で俳優デビュー。
以降、しばらくは脇役としての出演が続くのですが、1963年、「松竹」を退社してフリーとなると、1965年には、「兵隊やくざ」で勝新太郎さん演じる主人公・大宮のコンビ、有田上等兵役を演じ、シリーズ化されるほどの人気を博します。
そして、その後も、高廣さんは、「天平の甍」「泥の河」「眠る男」など、数々の映画に出演されると、その演技は高い評価を受け、4兄弟の中で、最も阪東さんの面影を残す名優とも称されたのですが、2006年、77歳で、「脳梗塞」のため急逝されています。
次男は田村俊磨
次男は、田村俊磨(たむら としま)さんで、1960年、木下恵介監督の映画「笛吹川」で、10歳年上の兄・高廣さんが演じる定平の少年時代(16歳)役で俳優デビューされているのですが(「田村登志麿」名義)、
俳優になるつもりはなかったようで、1962年、慶應義塾大学経済学部を卒業されると、「東京通商」に入社。
1965年には、阪東さんの13回忌企画である「破れ太鼓」に4兄弟で出演されるも、翌1966年には、「東京通商」を退職。
その後、兄・高廣さんや弟・正和さんのマネージャーを経て、1980年、「田村産業株式会社」(1993年に「タムサプライヤ」と改称)を設立されています。
(水防止剤、屋外用テーブルチェア、パラソル、健康志向食品、炭酸泉装置、除菌・消臭剤などを取り扱われているそうです。)
三男は田村正和
三男は、俳優の田村正和(たむら まさかず)さんで、1960年、長兄・高廣さん主演の映画「旗本愚連隊」を見に行った際、「松竹」にスカウトされて、この映画に端役として出演されると、高校在学中の1961年には、「永遠の人」で本格的に映画デビュー。
ただ、以降、立て続けに映画に出演するもぱっとしませんでした。
それでも、1980~1990年代には、「パパはニュースキャスター」「熱くなるまで待って!」「パパは年中苦労する」「ニューヨーク恋物語」など、ホームドラマやトレンディドラマに数多く出演して人気を博すと、1994年の「古畑任三郎」はロングランヒット。
そして、2018年には、人知れず芸能界を引退されています。
四男は田村亮
四男は俳優の田村亮(たむら りょう)さんで、1965年、高校3年生の時、映画「破れ太鼓」でデビューされるも、当初は、俳優になるつもりはなかったそうですが、
周囲からの勧めで、1966年、大学に在学している間だけと、「暴れ豪右衛門」に出演されると、以降、映画やテレビドラマに出演し続け、主に、「土曜ワイド劇場」などの2時間ドラマや時代劇に多数出演されています。
ちなみに、亮さんは、父・阪東さんについて、
私にとっては、たった7年間だけの父でした。しかも記憶として残っている父の姿は、私が4~5才になって物心のついた2~3年の間だけ。私が幼かったせいか<とっても優しいお父ちゃん>と云う思い出しかありません。
死後、父のエピソードは色々な方々から沢山沢山耳にしますが、撮影所に行く前にブラッと裏の畑に行って柿やらビワやらあるいはイチジク等を一つもぎ取って来ては、お手伝いさんに「あとで幸照(私の本名)に食べさせてやりなさい」と云って、出掛けて行ったそうです。幼い末っ子が可愛かったのか、先行きが心配だったのか・・・。
と、語っておられます。
水上保広は婚外子
また、阪東さんには、奥さん以外の女性との間にもお子さんがいらっしゃいます。
それは、関西を拠点に活躍している俳優・水上保広さんで、水上さんは、1963年、16歳の時、阪東さんのマネージャーの勧めで芸能界入りすると、同年「戦国大統領」でテレビドラマデビュー。
以降、「水戸黄門」「必殺シリーズ」「暴れん坊将軍シリーズ」「鬼平犯科帳シリーズ」「名奉行 遠山の金さんシリーズ」などの時代劇ほか、「ふたりっ子」「ほんまもん」「風のハルカ」など、NHK朝の連続テレビ小説にも出演されています。
さて、いかがでしたでしょうか。
阪東さんの、
- 年齢は?出身は?身長は?本名は?芸名の由来は?
- 父親は破産し母と兄と姉は他界
- 十一代目片岡仁左衛門の内弟子に
- 歌舞伎役者を断念し「吾妻座」に入座
- 映画に新天地を見いだすも・・・
- エキストラに甘んじる日々
- 「阪東妻三郎大一座」旗揚げで人気博すも・・・
- 裏切りに遭い一文無し
- 「マキノ映画製作所」に入社~「怪傑鷹」の見目麗しい敵役で人気
- 「燃ゆる渦巻」ではスーパースター尾上松之助を圧倒
- 主演映画「鮮血の手型 前後篇」が映画界に衝撃を与える
- 豪快でリアルな中に優雅さのある殺陣
- 「阪東妻三郎プロダクション」設立~「雄呂血」が大ヒット
- 「乱闘劇のバンツマ」と一世風靡
- 体制に反逆する主人公が人々を熱狂させる
- 「松竹」と配給提携を結ぶも・・・
- 「松竹」と絶縁し「太秦撮影所」を解散
- 「阪東妻三郎プロダクション」解散
- トーキー映画では細く甲高い声で苦労
- 「日活」に移籍し「剣戟王・阪妻」として復活
- 稲垣浩監督から「無法松の一生」のオファー
- 稲垣浩監督とは仕事を超えた絆
- 当初はオファーを断っていた
- 命を賭けてオファーを引き受ける
- 権力への反骨精神
- 「無法松の一生」が代表作に
- 死因は脳内出血
- 四男・田村亮のコメント
- 晩年はセリフを覚えるのに苦労していた?
- 「阪東妻三郎 発掘されたフィルムの謎~世界進出の夢と野望」
- 妻は?
- 長男は田村高廣
- 次男は田村俊磨
- 三男は田村正和
- 四男は田村亮
- 水上保広は婚外子
について、まとめてみました。
幼い頃に、お父さんが破産したうえ、お兄さん、お姉さん、お母さんが相次いで亡くなるも、歌舞伎役者への弟子入りから、見事、「剣戟王バンツマ」にまで登りつめ、さらには、命を懸けるほどの情熱を注ぎ、「無法松の一生」で一世一代の名演技を披露した阪東さん。
この機会に、阪東さんが情熱を燃やしてきた作品の数々、ご覧になってはいかがでしょうか。
「阪東妻三郎の生い立ちは?当初は歌舞伎に弟子入りしていた!」
(左から)田村高廣さん、田村俊磨さん、田村正和さん、田村亮さん。