1961年、「文学座」が12年ぶりに行ったオーディションで、見事、難関を突破して、「文学座」の研究生になられた、橋爪功(はしづめ いさお)さんは、その後、「文学座」のスターだった芥川比呂志さんに心酔し、行動を共にすることになります。

「橋爪功の生い立ちは?父親は大阪電気商会の重役だった!」からの続き

Sponsored Link

芥川比呂志に従い「文学座」脱退~「劇団 雲」参加

1961年、見事、難関を突破して、「文学座」の研究生になられた橋爪さんですが、

1963年には、芥川比呂志さんが中堅・若手劇団員29名を引き連れて「文学座」を退団した、いわば「集団脱退劇」に、橋爪さんも参加。


芥川比呂志さん

(この出来事は、日本演劇界始まって以来の大事件として、当時のマスコミにも大きく取り上げられたそうです)

そして、その後、芥川さんらが設立した、財団法人「現代演劇協会」の附属劇団である、「劇団 雲」に参加されるのですが・・・

「劇団 雲」では下っ端に降格

ただ、「劇団 雲」では、下っ端からやり直すことになったそうで、

(橋爪さんが、なぜ、下っ端に降格になったのか原因は不明ですが、芥川さんが、長期間、病気療養され、1965年にようやく「雲」の舞台に復帰されているので、芥川さんの影響力が及ばなかったのが原因かもしれません)

台本に20代の若者の役があると、たとえ、セリフが2つ3つの役でも、飛び上がって喜んだそうですが、そんな役でさえも、30代の先輩に持っていかれることも多く、悔しい思いをされたそうです。

(そんな環境から、演技を学ぶどころか、裏方の仕事ばかりで、ここで得たものといえば、大道具の積込みとバラしの技術だったとか。ただ、そうした恨みつらみが、現在まで俳優を続けてこられた原動力になったそうです。)

「スカパンの悪だくみ」で演劇界のスターに

そんな中、橋爪さんは、1974年、33歳の時、尊敬する芥川さん演出の舞台「スカパンの悪だくみ」で初めて主役に抜擢され、大阪弁の主役・スカパンを演じると、一躍、演劇界のスターとなられているのですが、

(「スカパンの悪だくみ」は、もともとは、フランスの劇作家・モリエールが1671年に発表した戯曲がもとになっていて、芥川さんの指示で、スカパンら従僕のセリフを大阪弁に直すように言われたほか、ローラースケートを履いての出演だったそうです)

後に、橋爪さんは、

この出会いがなければ芝居を続けていたかもわからない

と、芥川さんとの出会いが人生を左右する出来事だったと語っており、

芥川さんとともに「劇団 雲」に移るなど、行動を共にしたことで、芥川さんから芝居のエッセンスをたくさん吸収したと明かされています。

芥川比呂志が師匠

実際、1970年、「劇団雲」「寺院の殺人」が上演され、芥川さんが叫びながら死ぬ役を演じられた際には、

芥川さんは、もともと肺が悪いにもかかわらず、ものすごい声で叫んでいたため、倒れると顔が真っ青になっていたそうで、橋爪さんが、「そこまでしなくても」と言うと、

あのなヅメ(橋爪さんのこと)、俳優が本当に絞りきって声を出さないと、お客さんには届かない

と、諭されたそうで、

魂を込めるところはすごいことを起こさないと駄目というのは、芥川さんに教えられました

と、橋爪さんは、語っておられました。

芥川比呂志らと「演劇集団 円」を設立

そんな橋爪さんは、1975年には、再び、芥川さんらとともに「劇団 雲」を脱退し、「演劇集団 円」の設立に参加されているのですが、

(その頃のことは、口にするのも嫌なことがあったそうで、あまりはっきり覚えていないそうです)

尊敬する芥川さんの持病の「肺結核」が悪化し、芥川さんは、「演劇集団 円」では、ほとんど活動できないまま、1981年、61歳で他界。

橋爪さんは、

頭も体も全部を激しく使って演劇をやった方でした

と、芥川さんを偲ばれています。

Sponsored Link

「演劇集団 円」の代表に就任

ところで、橋爪さんは、「演劇集団 円」の設立当時は、

高校の演劇部から分裂ばかりだったから、創立メンバーになるときは嫌な気がした

と、心配されていたそうですが、

2006年に前代表で先輩俳優の仲谷昇さんが他界された後は、

芥川(比呂志)さんをはじめ、すてきな先輩方が本当に苦労して続けてきた劇団だから、壊したくはない

と、橋爪さんが代表を引き継がれ、

その甲斐あって、2019年現在、「演劇集団 円」は、設立45年を迎えています。

「橋爪功のデビューからの出演ドラマ映画を画像で!」に続く

Sponsored Link