「てんぷくトリオ」で人気を博す一方で、俳優としての才能も開花された、伊東四朗(いとう しろう)さんですが、1975年には、小松政夫さんとコンビを組むと、「てんぷくトリオ」ではサブ的な役割だった伊東さんのコメディアンとしての才能が一気に爆発します。

「伊東四朗のデビューからの出演ドラマ映画を画像で!」からの続き

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「てんぷくトリオ」の戸塚睦夫が死去

「てんぷくトリオ」は、1972年にも、NHKの「お笑いオンステージ」でメインとして活躍するなど、相変わらず高い人気を誇っていたのですが、1973年、「てんぷくトリオ」のメンバーである戸塚睦夫さんが、42歳という若さで他界。

そのため、残された伊東さんと三波伸介さんの2人は、トリオとしての活動が続けられなくなり、当初は、「てんぷく集団」を名乗って活動されていたのですが、次第に個人としての活動にシフトしていきます。

小松政夫とのコンビが人気爆発

そんな折、伊東さんは、1975年、お笑い番組「笑って!笑って!60分」で、人気絶頂だった「ずうとるび」のもり立て役として、最初の2回のみ、小松政夫さんと出演される予定だったのですが、

「小松の親分さん」というネタで、落ち込んでいる「小松の親分」(小松さん)を慰めようと、「子分」である伊東さんが、

ズンズンズンズン、3、4、小松の親分さん!

と、言い、

これに小松さんが、

ニンドスハッカッカ!ヒジリキホッキョッキョ!ガーッチャマンに負けるな、負けるなガーッチャマン!

と、意味不明なギャグでキレっキレっに乗ると、このお二人の掛け合いが絶大な人気を博し、以降、継続して出演し続けることになります。

「ベンジャミン伊東」「電線音頭」で大ブレイク

実は、伊東さんが初めて小松さんに出会ったのは、1970年、お笑い番組「お笑いスタジオ」だったそうで、お二人は、お笑いの感性が似ていたことから意気投合。

結局、お二人は、1973年まで、この「お笑いスタジオ」で共演されていたのですが、この時はコンビではなく、あくまで共演だったのですが、

それが、この「笑って!笑って!60分」での絶大な人気で、ついに、伊東さんと小松さんは、「お!ジョーズ」というコンビを結成し、他のお笑い番組にも出演し始めます。

すると、1976年には、当時の人気アイドル「キャンディーズ」加山雄三さんが中心のお笑い番組「みごろ!食べごろ!笑いごろ!」に出演されるのですが、

やがて、「キャンディーズ」が途中で解散し、お二人がメインの番組になると、小松さん演じる「小松与太八左衛門」と伊東さん演じる「ベンジャミン伊東」「デンセンマン」に扮し、「電線軍団」を率いて、こたつの上で歌い踊る「電線音頭」が、小学生を中心に絶大な支持を得て、一躍「デンセンマン」ブームを巻き起こしたのでした。

(当時、これを真似て、自宅のこたつの上で歌い踊る小学生が続出。こたつの脚が壊れる事故が多発したことから、学校で電線音頭が禁止されるほか、PTAから俗悪番組とバッシングされたのだそうです。)

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「しらけ鳥音頭」も人気爆発

また、そのほかにも、伊東さんが母親役、小松さんが息子の政太郎役を演じた、「悪ガキ一家と鬼かあちゃん」では、

会話中に場がしらけると、政太郎が、突然、右手にしらけ鳥のパペットを持って、「しらけ鳥音頭」を歌いだす、というコントも人気爆発。

まさに、お二人は、飛ぶ鳥を落とす勢いの人気者となられたのでした。

ただ、意外にも、当の伊東さんは、

あの電線音頭は「電線軍団というのを作りますから、団長をお願いします」とプロデューサーに丸投げされて、台本の裏に扮装のイラストを描き、振り付けも自分でやった。バカバカしいからすぐ終わると思って「ベンジャミン伊東」と名乗りました。

わからないものです。それが評判に。俳優の藤田まことさんには「シロちゃん、あんた大丈夫か? あれマジかいな」と心配されましたが、作家の小林信彦さんは「あれは『ダリ』だ。すごい。シュールだ」と絶賛してくれました。

と、これほどまでにヒットするとは思ってもいなかったそうです♪

「伊東四朗は電線音頭ブレイク真っ最中にシリアスなオファーが来ていた!」に続く

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