1945年5月、「B29」の空襲により、「歌舞伎座」が焼け落ちてしまうと、激しい怒りがこみ上げると同時に敗北感に打ちひしがれたという、萬屋錦之介(よろずや きんのすけ)さんでしたが、同時期には良い出会いもあったようです。

「萬屋錦之介は少年時代に戦争で実家も歌舞伎座も焼け落ちていた!」からの続き

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東千代之介(若和田孝之)と再会

「東京大空襲」「歌舞伎座」が焼け落ち、激しい怒りと敗北感に打ちひしがれた萬屋さんですが、

その一方で、暁星中学校での軍事教練の最初の授業の時には、2人の兄の共通の友人・若和田孝之さん(後の東千代之介さん)が教員として颯爽と現れ、萬屋さんを見るなり、

なんだ錦坊じゃないか!

あっ、先輩!

と、思わぬ再会をしたそうです。

(萬屋さんは、もともと、暁星小学校に通っており、空襲がひどくなったため世田谷に引っ越し、松沢国民学校に移ったそうですが、その後、中学1年生の時、暁星中学校に戻ったそうです。)

東千代之介(若和田孝之)は2人の兄の友人だった

というのも、若和田さんは、長唄の家元・六代目杵屋彌三郎さんの次男として誕生すると、暁星小学校・中学校に進学され、中学3年生の時には弓道部に入部されているのですが、そこで、一年先輩の萬屋さんの一番上の兄・貴智雄さん(後の二代目中村歌昇さん)と知り合い、

しかも、その後、貴智雄さんが落第してしまったため、中学4年生(旧制中学校では5年生まであったそうです)では同級生になると、若和田さんは、子どもの頃から大の歌舞伎ファンで、歌舞伎役者に憧れていたことから、以来、二人は親友となり、

そのうえ、若和田さんまで成績不良で落第してしまったことから、もう一年、中学4年生をやることになったのですが、今度は、萬屋さんの2番目の兄・茂雄さん(後の四代目中村時蔵さん)とも同級生になっていたそうで、すでに若和田さんと萬屋さんは顔見知りだったのでした。

東千代之介(若和田孝之)は生徒に人気の教師だった

ところで、そんな若和田さんが、なぜ教師になったのかというと、1944年4月、戦時色も次第に強まる中、授業どころではなくなり、毎日、学徒勤労奉仕に駆り出されていたそうで、若和田さんは、品川の鮫洲という所にある防毒マスクの工場に勤務していたそうですが、

(※学徒勤労奉仕とは、深刻な労働力不足を補うために、中等学校以上の生徒や学生が軍需産業や食料生産に動員されたこと)

ここでの勤労奉仕が嫌で嫌でたまらず、怠けがちになり、暁星中学校で軍事教練担当の馬場中尉という教官に相談したところ、

じゃあ教官でもやってみるか

という話になり、同年6月頃、母校・暁星中学校の体育科補助教官に採用されたのでした。

ちなみに、まだ18歳だった若和田さんは、生徒と年齢が近かったうえ、明るく真面目で人柄も良かったほか、授業は、軍歌の演習や隊列を組んでの行進だけではなく、

若和田さん自ら校舎の屋上に上って手旗信号をやって見せたり、グライダーを借りてきて生徒と実践さながらの飛行機ごっこをしたり、校庭での青空教室では、市川右太衛門さんの「旗本退屈男」のマネをしながら、話を作って聞かせるなど、斬新な授業で生徒たちの心を掴んだそうで、すぐに生徒の間で人気者となり、多くの生徒に慕われるようになったそうで、

萬屋さんは、後に、自伝「ただひとすじに」の中で、

私は、学校のころ、錦坊錦坊と可愛がられたもので、その頃の私は大変腕白だったので、千代之介さん(若和田さん)の大切に秘蔵していた日本刀をこっそり持ち出して、庭の木をバサリバサリと叩き斬ってしまったことがあります。

あの時は千代之介さんもただあきれて、別に怒りもせず、私もやってしまってからやりすぎたかとちょっと悪い気がした程度でしたが、全く今考えると、腕白だったその頃が一層懐かしくよみがえって来ます。

と、明かされています。

東千代之介(若和田孝之)と歌舞伎の芝居を企画していた

また、萬屋さんと若和田さんは、歌舞伎のお芝居を企画されたこともあったそうで、萬屋さんの暁星小学校時代の同窓生は、

学芸会で千代之介(若和田)さんが芝居を書いてやったね。サルカニ合戦を歌舞伎化してやろうということになって、顔をつくる人がいないので錦ちゃん(萬屋さん)に頼んでさ、東千代之介作、中村錦之助(萬屋錦之介)指導というのをやったね。受けたね。これが。(笑)

と、明かされていました。

東千代之介(若和田孝之)との別れ

しかし、そんなお二人も、1945年7月、若和田さんに応召がかかると、若和田さんは、壮行会の際、生徒の前で、

俺が、こうやって喋っている間にも先輩たちは爆弾を抱き、銃を執って護国の鬼と化している。俺は君たちが後に続くのを信じて……

と、演説されたそうで、

萬屋さんは目に涙を浮かべながら聞いていたそうですが、胸が詰まって言葉にならなかったそうです。

(ただ、その後、若和田さんは、甲府で入隊されると、まもなく千葉へ回され、竹槍などを作っていたそうですが、戦線に送られることはなかったそうで、後に映画界に入られると、芸名「東千代之介」として、映画「笛吹童子」で萬屋さんと共演。これで、そろって、一躍「東映」のスターとなられると、お二人は、以降、次々と映画で共演し、ファンを沸かせています。)

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敗戦で一家団らんを取り戻す

そして、1945年8月15日、13歳の萬屋さんは、ラジオで玉音放送聞き、日本が戦争に負けたことを知るのですが、後に、

終戦の日が来ました。父も母も、広く世間一般の大人たちも子供たちまでもが、天皇陛下のお声を聞いて泣いたといい、そう言われてきてもいます。

しかし、僕はさっぱり泣けませんでした。泣けるどころか、何の事やら判りませんでした。年が若かったために、国家がどうこうしたのなど、ぴんとこなかったのです。

と、語っておられ、

萬屋さんにとっては、そんなことより、新潟に疎開していた、お母さん、姉妹、弟が戻ってきて、家族の誰も欠けることなく、再び、一家団らんができることが何より嬉しかったそうです。

「萬屋錦之介の若い頃は歌舞伎の女形も良い役が回ってこなかった?」に続く

東千代之介さん(左)と萬屋さん(右)

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