美空ひばりさんの相手役として映画に出演することが発表されると、歌舞伎界から強い非難を受け、「映画に出るなら歌舞伎界追放」を突きつけられた、萬屋錦之介(よろずや きんのすけ)さんですが、一念発起、歌舞伎を捨て、映画界へ転身されると、その後、映画「笛吹童子」で大ブレイクを果たします。
「萬屋錦之介が歌舞伎を捨て映画界入りしたのは松竹への憤激からだった!」からの続き
「ひよどり草紙」で美空ひばりの相手役として映画デビュー
一大決心して、歌舞伎界から映画界に転身した萬屋さんは、1954年2月、映画「ひよどり草紙」(松竹映画)で美空ひばりさんの相手役として俳優デビューすると、
美空ひばり初の恋愛もの。相手役は映画初出演、歌舞伎界の貴公子中村錦之助
との前宣伝の効果もあり、映画はヒット。
「ひよどり草紙」より。萬屋さんと美空ひばりさん。
その後、萬屋さんは、「新芸術プロダクション」の福島通人社長の売り込みで、「東映」に所属することになります。
(東映のプロデューサー・マキノ光雄さんと岡田茂さんは、萬屋さん一人では承知せず、美空さんもということで、萬屋さん美空さん二人セットで東映に所属することになったそうです)
撮影初日で監督やスタッフの気持ちを掴んでいた
すると、岡田さんによると、萬屋さんが初めて「東映京都撮影所」に来て、挨拶(初対面)しにきた時には、特に萬屋さんに強い印象は持たなかったそうですが、
「笛吹童子」の撮影初日、撮影の三木滋人さんと監督の萩原遼さんが部屋に来て、
今度入った錦之助、あれは本物や。大物になるでぇ。
と、言ったことから、撮影を見に行くと、
本当だ
と、感心。
というのも、萬屋さんは、なんと、撮影初日の午前中の時点で、すでに監督やスタッフの気持ちをつかんでおり、あっという間に撮影所内で親分的な存在になっていたというのです。
そして、岡田さんは、すぐに、東京本社のマキノ光雄さんに、
錦之助は大スターになる
と、電話で報告したのでした。
「笛吹童子」が大ヒット
かくして、1954年4月、映画「笛吹童子」がゴールデンウィークに封切られると、萬屋さんの見目麗(みめうるわ)しい若侍・笛吹童子こと菊丸はたちまち人気を博し、映画は3週連続公開される大ヒット。
この年、「東映」に入社したばかりだった、後の「東映」の会長・高岩淡さんは、
1日1万人もお客が入り、座れない子供たちが舞台の上まで鈴なり。後方でお父さん全部が子どもを肩車で担いでいる光景に感激した。
岡田さんも、
入場料金を段ボール箱にどんどん投げ込んで溢れる百円札を足で踏み付けて、事務所に持って行って、待機している銀行員が勘定するというように無茶苦茶お客さんが入った。
と、語るほど、萬屋さんの人気は凄まじく、
開館して間もない「渋谷東映」(東映の直営館第1号)は、観客が殺到して収容しきれず、急遽、ニュースと短編を上映していた地下劇場の営業を中止し、上下両劇場で、「笛吹童子」を上映するほどの大フィーバーとなったのでした。
「笛吹童子」より。錦之助さんと美山黎子さん。
美空ひばりとのコンビで東映の救世主に
そんな萬屋さんは、「笛吹童子」第一部「どくろの旗」出演後は、美空ひばりさんたっての希望で、映画「唄しぐれ おしどり若衆」で、再び美空さんの相手役に起用されているのですが、
(「笛吹童子」は、第二部「妖術の闘争」、第三部「満月城の凱歌」と続きます)
二人のコンビを見た岡田さんは、「これはいける」とピンときたそうで、それまでの東映カラーにない時代劇を作ろうと意気込んだのだそうです。
(この時、東映は、スター俳優にギャラも支払えないほど、経営難にあえいでいました)
「唄しぐれ おしどり若衆」より。萬屋さんと美空ひばりさん。