萬屋錦之介が歌舞伎を捨て映画界入りしたのは松竹への憤激からだった!


「新芸術プロダクション」の福島通人社長から、美空ひばりさんの相手役の映画出演オファーを受けると、以前から映画界に憧れていたこともあり、快諾された、萬屋錦之介(よろずや きんのすけ)さんですが、いざ、映画界入りが発表されると、身内であるはずの歌舞伎界から非難され、歌舞伎界追放まで突きつけられます。

「萬屋錦之介は歌舞伎役者ながら映画出演に憧れていた?」からの続き

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美空ひばりに気に入られていた

1953年、「新芸術プロダクション」の福島通人社長に気に入られ、美空ひばりさん主演の映画で、美空さんの相手役に決まった萬屋さんですが、

実は、福島社長は、萬屋さんに会って出演交渉をする前に、事前に美空さん側に、相手役の候補に萬屋さんが挙がっていることを伝えていたそうで、

美空さんの妹・佐藤勢津子さんによると、

中村錦之助さん(萬屋さんの旧芸名)の写真を、姉と私たちは間坂の家のお茶の間で初めて見ました。家族全員が「可愛い~!」の一言。凛々しい錦兄(萬屋さんのこと)のプロフィールに、姉はいっぺんで気に入った様子でした。

と、美空さんと美空さんの家族は、ひと目で萬屋さんを気に入っていたのだそうです。

こうして、美空さんと美空さんのお母さん・加藤喜美枝さんがOKを出され、福島社長は萬屋さんの出演交渉に入ったのだそうです。

美空ひばりが新人俳優の萬屋錦之介の楽屋を表敬訪問していた

しかも、萬屋さんの出演が成立した数日後には、美空さんと喜美枝さんは、忙しいスケジュールの合間をぬって、わざわざ、萬屋さんが新撰組の隊士の一人として出演していた舞台「明治零年」を観に訪れ、萬屋さんの楽屋を訪ねたそうですが、

この頃の美空さんは飛ぶ鳥を落とす勢いのスターだったため、共演者の、ましてや、映画界入りしたばかりの新人の楽屋を表敬訪問するということは極めて異例のことだったそうです。

美空ひばりの映画出演に歌舞伎界から非難が上がっていた

しかし、萬屋さんの映画界入りが決まってから2~3日後、「新芸術プロダクション」の福島社長から、萬屋さんが映画界入りするとの発表があり、

歌舞伎界の名女形時蔵の四男錦之助がひばりの「ひよどり草紙」に出演して銀幕入り

といったタイトルで、萬屋さんの映画界入りを各新聞社が一斉に報じると、

萬屋さんいわく、

歌舞伎界の名門の錦之助が映画界に入り、美空ひばり主演の「ひよどり草紙」、それも美空ひばりのマネージプロの作品、美空ひばりの引き立て役として私が出演するようなものだとの非難が歌舞伎界の間に起ったのです。

一門の中にもあからさまに、非難を公言する人が出て来たのです。

と、歌舞伎界から非難の声が上がったのです。

つまり、当時の歌舞伎界では、美空さんに対する蔑視と反感があり、歌舞伎界の御曹司である萬屋さんが、設立してまだ間もない、大した映画も作っていない「新芸術プロダクション」の映画に、流行歌手でしかない美空さんの引き立て役として使われることが我慢ならなかったのでした。


「ひよどり草紙」より。萬屋さんと美空ひばりさん。

歌舞伎役者をあきらめ映画俳優になることを決意

この事態に、「松竹」の重役は、萬屋さんの映画界入り容認を取り消し、

従わないなら、錦之助の松竹在籍の身分を抹消する。そして二度と松竹に戻ることは許さない。

と、かなり強硬的に、萬屋さんのお父さんの三代目中村時蔵さんに言ってきたそうで、

当初、萬屋さんと萬屋さんの両親は、ここまで事態が悪化するとは考えておらず、

しばらく映画に出演し、ある程度活躍したら、また歌舞伎界に戻って出直せば良い

と、考えていたそうですが、

慌てて、お母さんは、「松竹」演劇部に毎日のように通いつめ、萬屋さんの除籍だけはやめてほしいと懇願されたそうですが、その懇願は受け入れられず、

結局、萬屋さんは、三日三晩考え抜き、歌舞伎役者としての将来をあきらめ、映画界に入って映画俳優の道を邁進することを決意されたのでした。

松竹の冷酷な仕打ちに憤激して映画界入りしていた

ちなみに、この話は、萬屋さんの映画界入りを、お父さんの三代目中村時蔵さんが反対し、

(映画界へ行くのなら)二度と再び歌舞伎の舞台には戻らない覚悟で行け

と、言ったことから、萬屋さんが歌舞伎界から映画界に転身したと、広く知られているのですが、

(後に、萬屋さん自身もそう強調されていました)

実際のところは、「松竹」に苦渋の選択を強いられたお父さんが、萬屋さんに、

それでもいいのか

と、念を押したに過ぎず、

もともと意地っ張りな性格だった萬屋さんは、「松竹」の自身に対する冷酷な仕打ちに憤激。開き直って映画界入りを決意したというのが真相のようです。

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家族のバックアップを受けて映画界へ

そして、萬屋さんが映画界入りを決意した後は、お父さんの三代目中村時蔵さんは、忙しいスケジュールの合間をぬって映画関係者たちに連絡を取ってくれ、お母さんのひなさんは挨拶回りに奔走してくれるなど、全面的にバックアップしてくれたほか、

長兄の歌昇さんも次兄の芝雀さんも、すでに歌舞伎を辞めた三兄の三喜雄さんも、弟の賀津雄さんや四人の姉妹も、家族同様の婆もお手伝いさんも門弟たちも、みんな萬屋さんの門出を祝福し励ましてくれ、いろいろな忠告もしてくれたそうで、萬屋さんは涙が出るほど嬉しかったそうです。

こうして、1953年11月26日、萬屋さん(21歳)は、歌舞伎座公演の千秋楽を迎え、この日を悔いなく勤め上げると、11月末、映画界という未知の世界に希望を抱きながら、大きな旅行かばんを持って、京都に向かわれたのでした。

(映画の脚本は、前もって「新芸術プロダクション」からもらっていたため、すでにセリフは全部覚えていたそうです)

「萬屋錦之介は映画デビュー笛吹童子が大ブレイクで東映の救世主に!」に続く

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