トップセールスマンの地位を築きながら、植木等さんの付き人募集の広告を目にして、運命を感じて応募すると、600人の応募者の中から、見事採用された、小松政夫(こまつ まさお)さん。実際、小松さんにとって、植木さんは運命の人になるのですが、今回は、そんな小松さんと植木さんの深い絆が伺えるエピソードをいくつかご紹介します。
「小松政夫は植木等の付き人に応募者600人の中から採用されていた!」からの続き
トップセールスマンから植木等の付き人に転身
小松さんは、1964年1月から、正式に植木さんの付き人兼運転手となられているのですが、小松さんの生活は一転。
月給は7千円に下がったうえ(セールスマン時代の20分の1)、とにかく忙しく、睡眠時間は1週間に10時間ほどという超ハードな毎日だったそうです。
それでも、辛いと感じたことは一度もなかったそうで、大好きな憧れの人のそばにいられることが、むしろ楽しくて仕方がなく、
おやじさんは何がほしいのか、何をしたいのか、気配で察知してすぐにやる。「滅私奉公は古くさい」と言う人もいるでしょうね。
でも、尊敬する一流の師のそばにいて、お世話ができる。それだけで幸せでした。
と、一日一回は植木さんを喜ばせようといろいろ考えるほどだったといいます。
(ちなみに、セールスマン時代、高級取りだった小松さんは、毎週、熱海や湯河原に行っては芸者さんを呼び、チップとして札束をばらまくなど、どんちゃん騒ぎに興じていたことから、貯金がまったくなく、植木さんの付き人兼運転手になってからは、スーツなどを切り売りして生活したそうです。)
植木等は本当の父親のようだった
こうして、植木さんに心酔していた小松さんですが、植木さんも小松さんに対し、本当の息子のように接してくれたそうです。
小松さんが植木さんの付き人に採用されて4ヶ月ほど経った頃、病気で休んでいた植木さんの快気祝いとして、ゴルフコンペが開催されたそうで、
(政財界やスポーツ界のそうそうたる人たちが集まっていたそうです)
植木さんからは、ゴルフ場で、
俺の名前でサインすればレストランと同じものが届くから、昼はゆっくりしていなさい
と、運転手専用の休憩所で休んでいるように言われたそうですが、
小松さんは、休憩所にいたくなかったため、洗車場に行って車をピカピカに磨き、ゴルフコンペが終わった後、植木さんを車に乗せようとすると、各界のすごい人達が自分に向かって、「がんばってね」と言って手を振っていたそうで、
植木さんに呼ばれ、行ったところ、植木さんは、
ご紹介します。ここにいるのは松崎雅臣(小松さんの本名)といいます。今に大物になりますので、皆さん、お見知りおきください。
と、みんなに紹介してくれたというのです。
付き人時代の小松さんと植木等さん。
植木等のさりげない気遣い
そして、その後、車に乗ると、
お前、飯食ったか?
と、植木さんから聞かれたそうで、
小松さんが、とっさに、
ええ、いただきました
と、答えると、
うそつけ。俺の所にツケが回ってこないぞ
と、ウソを見破られてしまったそうで、
すみません。車を磨いていたもんで、忘れました
と、正直に言うと、
植木さんは、
俺も脂っこいもの食わされてな。満足に食ってないんだ。蕎麦屋みたいな所に行きたいな。
と、言ったそうで、蕎麦屋に行くことに。
すると、蕎麦屋では、小松さんがかけそばを頼むと、植木さんは、天丼とカツ丼を注文したそうで、内心「すごいな」と思っていると、
俺は油もんを食べちゃいけないのに、ついこんなもん頼むんだよな。お前、食ってくれ。
と、遠慮してかけそばしか頼まなかった小松さんを気遣い、わざと、天丼とカツ丼を注文されたのだそうです。
植木等の計らいで東京オリンピックの開会式を名士らと観る
また、1964年10月10日、「東京オリンピック」の開会式では、小松さんは、招待されていた植木さんを国立競技場に送った後、車で待つつもりだったそうですが、
植木さんから、「一緒に来いよ」と言われたそうで、ビクビクしながらついて行くと、
植木さんは、係りの人に、
うちの若い者の席はありますか?
と、言い、たちまち席が用意されたそうで、
まだ22歳の若者だった小松さんは、そうそうたる名士が並ぶ中、世紀の祭典を目の前で見ることができたのだそうです。
「小松政夫の若い頃は淀川長治のモノマネで人気を博していた!」に続く
小松さん(左)と植木等さん(右)。