2014年11月10日、「悪性リンパ腫」のため、静かに息を引き取った、高倉健(たかくら けん)さんですが、その後、養女の存在が明らかとなります。今回は、そんな高倉さんと養女の方との出会いについてご紹介します。
「高倉健の死因は悪性リンパ腫!前立腺ガンも患っていた!」からの続き
高倉健の死去後、養女の存在が報じられる
2014年11月18日、高倉さんが11月10日に死去したこと、すでに密葬が済んだことを、所属事務所が公表したのですが、その年の年末、突如、高倉さんに養女がいることが、一部週刊誌で報道されます。
報道によると、その養女は、元女優の「小田貴月(おだ たか)」さんという方で、高倉さんとは年齢差が33歳あったそうですが、母であり、妻であり、娘のようであったとも言われ、高倉さんにとっては特別な存在だったようで、
長年世話になった人に財産を残したい。
と、高倉さんが弁護士に相談し、養子縁組されたようです。
その後、病に伏した高倉さんの介護を一人で続け、最期を看取ったのも、小田さんだったのですが、高倉さんの死後、高倉さんの親族も知らないうちに、散骨、邸宅を解体しての建て替え、高倉さんの車やクルーザーを処分したことが、報じられたのでした。
(小田さんは、女優時代は「貴倉良子(たかくら りょうこ)」の芸名で活動。女優やタレントとしての活動のほか、ライター、ホテルジャーナリスト、テレビディレクターなどもされていたことがあったようです)
20代の頃の小田貴月さん。
小田貴月との馴れ初め
そんな小田さんは、これまで一切、世間に出ることはなく、沈黙を貫かれてきたのですが、高倉さんが亡くなり、5年経った2019年11月、高倉さんの命日を前に、高倉さんとの日々を綴った著書「高倉健、その愛。」を上梓。
その後、初めてメディアの取材に答えられています。
小田さんによると、1996年3月、フリーライターとして活動されていた時、女性誌の取材で香港のホテルを訪れたそうですが、仕事の後、昼食をとるため、カメラマンら仕事仲間とレストランへ行くと、偶然、テーブルで談笑する高倉さんを見かけたそうです。
小田さんは、当時、高倉さんのことを、「八甲田山」や「南極物語」に主演した俳優さん程度の認識しかなかったそうですが、
それでも、著名な俳優だということは知っていたため、高倉さんの食事中にカメラ機材を抱えて入ることを遠慮し、いったん外へ出て、その後、隅の方の目立たない場所で食事をされていたところ、
そこに高倉さんが現れ、
お気遣いいただき、ありがとうございました
と、会釈をして行かれたのそうです。
取材に答える小田さん。
手紙のやりとりで親交を深める
帰国後、小田さんは、心遣いへのお礼状とともに、その時のホテル取材の掲載誌を高倉さんに送られたそうですが、高倉さんからも、ご本人の著書やインタビューの掲載誌が送られてきたそうで、それから手紙のやり取りが始まったそうです。
とはいえ、2ヶ月に一度ほどのやり取りで、手紙の内容も他愛のないものだったそうですが、そんなやり取りが1年ほど続いたそうです。
そんな頃、小田さんが、テレビの取材で3週間、イランに行くことになったそうですが、高倉さんは、小田さんの宿泊先のホテルに、小田さんの身を案じる電話やFAXをくれるようになり、
(映画「ゴルゴ13」の撮影で、イランに行ったことのある高倉さんは、女性に制約の多い、イスラム圏での取材を心配されたようです)
やがては、電話で、自身のプライベートなことまで話してくれるようになったそうで、
小田さんは、
どうしてそこまで?
と、思いながらも、聞き役に徹していたそうですが、
帰国後もお二人の交流は続き、やがて、一緒に暮らすことになったそうで、
小田さんは、
(一緒に住もうという)高倉からの言葉はなかったです。なんでしょうか……高倉との関係は、周波数がピタリと合ったとでもいうのでしょうか。何を言わんとしているのか、私のなかにスッと入ってきました。
年齢も性差も超えた、魂のレベルで共鳴したのだと。いずれにしても言葉での説明は難しいです。「僕もいろいろな人と出会いました。でも、今は独りです」と高倉は言いました。
私は、それまで仕事で海外によく行きましたが、この時、今度は「“高倉健という旅”をしてみよう」と自然に思えたのです。顔が知られ、時に、そのことに疲れ果て、「仕事以外では目立たず過ごしたい」と切実に願う高倉の、自分は伴奏者、そして伴走者になれないだろうか、とも。
その旅には、地図もガイドブックもありませんが、やり遂げてみよう。こんな人生があっていい。私にとっては大きなチャレンジでした。
と、明かされています。