幼少期から裕福な家庭で何不自由なく育ち、高校生の頃には、ギターにハマるほか、モーターボートまで作るなど、自由奔放に人生を謳歌されていた、加山雄三(かやま ゆうぞう)さんですが、恵まれすぎていたせいか、そんな環境を提供してくれていた父親(上原謙さん)に対してまで、長年逆恨みしていたことがあったそうです。
「加山雄三は幼少期から才能も環境も抜群に恵まれていた!」からの続き
高校生の時ギターに目覚める
自由な校風に憧れ、猛勉強の末、1953年、見事、「慶應義塾高校」に合格した加山さんは、高校2年生の時、初めてスキー競技大会に出場し、友達と志賀高原の「石の湯スキー場」に行かれたそうですが、
その友達のうちの一人がウクレレを弾くのを聴いて興味を持ち、1時間くらいコーチしてもらって基礎をマスターすると、その後、その友人の影響でギターにも興味を持つようになり、質屋で買った500円のギターで練習されたそうです。
(加山さんが高校3年生の頃、アメリカでは、映画「暴カ教室」のテーマ「ロック・アランド・ザ・クロック」が、若い世代を中心に大ヒットを記録するほか、エルヴイス・プレスリーがデビューするなど、アメリカン・ロックが世界中で一大ブームとなり、日本でもロカビリーブームが巻き起こったそうです)
慶應義塾大学法学部政治学科に進学
とはいえ、この頃はまだ、音楽を職業にしようとは思っておらず、むしろ、少年の頃から船を作る仕事に就くのが夢だったことから、加山さんは、大学進学に向けて、船舶設計の専攻がある工学部に進学を希望されていたそうで、
18歳の時には、初のモーターボート「ブレーブマン」を5ヶ月がかりで完成させると、なんと、台風の中、この「ブレーブマン」号で鎌倉まで行かれたそうです。
ただ、その帰り、岸の近くで船が転覆したそうで、加山さんは、その船の下敷きになってしまい、溺れかかったそうですが、幸運にも、近くを通りかかった人に助けられたそうです。
(ちなみに、最終的には、工学部は成績不振のため断念し、法学部政治学科に進学されています)
慶応大学時代はバンド「カントリー・クロップス」を結成
そんな加山さんは、「慶應義塾大学」に進学すると、1957年、20歳の時には、同じ大学の仲間達と6人編成のバンド「カントリー・クロップス」を結成し、サイド・ギターとボーカルを担当されているのですが、
銀座の貸しダンスホール、学生パーティー、米軍横田基地などで、ウエスタンとロカビリーを主に演奏し、お小遣いを稼いだそうで、
加山さんは、後に、
このバンド体験で、対人関係や社会性を身に付けたりすることができた
と、語っておられます。
(ちなみに、後に、「ブルー・ジーンズ」や「ワイルドワンズ」などで活動された加瀬邦彦さんは、当時高校2年生で、加山さんの父・上原謙さんのクリスマスパーティーに参加するため、たまたま加山さんの自宅を訪れたそうですが、その際、加山さんたちが練習しているのを見て音楽に興味を持ち、その後、加山さんからギターを教わるなど、親交を深めたのをきっかけにミュージシャンとなったそうです)
加山さんの大学時代のバンド「カントリークロップス」(後列左から2番目が加山さん)
溺愛してくれた父親・上原謙に対しても長年逆恨みしていたことがあった?
ところで、経済的にも音楽的にも、申し分ない環境を提供してくれるなど、お父さんの上原謙さんからとても可愛がられた加山さんですが、それでも、お父さんに反発心を抱いたことがあったそうです。
というのも、子どもの頃、お父さん(上原謙さん)が仕事を終えて、久々に自宅に戻ってきた時、とても嬉しかった加山さんは、
お帰りなさ~い
と、出迎えたそうですが、
お父さんに、いきなり、殴られ、
お前は、お父さんの許可なく、高いセメントを使っただろう
と、言われたというのです。
これに対し、加山さんは、
セメント1袋使って殴られるかなあ、10袋もあるんだから1袋ぐらいいいじゃないか
と、恨みに思い、それ以来、ずっとお父さんに仕返しをする機会を狙っていたそうで、
ある時、お父さんがボクシングを練習していたことに目をつけ、加山さんも密かに鍛え始めると、加山さんが高校生になった時、お父さんにスパーリングを持ちかけ、なんと、お父さんの顔面に思い切りパンチを浴びせたそうで、
鼻血を出しているお父さんに、
お父さん、大丈夫って言いながら、内心では“やった、やった”って思った
と、長年恨みに思っていた仕返しが成功したと喜んだのだそうです。
18歳の時の加山さん(前列右)。