「ザ・タイガース」と「PYG」で、バンドとしての活動にこだわりを持つも、ソロでブレイクされた、沢田研二(さわだ けんじ)さん。今回は、そんな沢田さんのソロとしてのディスコグラフィーと、当時まだ珍しかったヴィジュアル重視のパフォーマンスについて、ご本人のコメントを交えてご紹介します。
「沢田研二の若い頃は「許されない愛」「危険なふたり」が大ヒット!」からの続き
ディスコグラフィー
それでは、ここで、沢田さんのソロとしてのデビューからのディスコグラフィーをご紹介しましょう。
1971年「君をのせて」
1972年「許されない愛」
「あなただけでいい」
「死んでもいい」
1973年「あなたへの愛」
「危険なふたり」
「胸いっぱいの悲しみ」
「魅せられた夜」
「魅せられた夜」
1974年「恋は邪魔もの」
「追憶」
「愛の逃亡者 THE FUGITIVE」
1975年「白い部屋」
「巴里にひとり」
「時の過ぎゆくままに」
1976年「立ちどまるなふりむくな」
「ウィンクでさよなら」
「コバルトの季節の中で」
「コバルトの季節の中で」
1977年「さよならをいう気もない」
「勝手にしやがれ」
「MEMORIES」
「憎みきれないろくでなし」
1978年「サムライ」
「ダーリング」
「ヤマトより愛をこめて」
「LOVE (抱きしめたい)」
「サムライ」
1979年「カサブランカ・ダンディ」
「OH! ギャル」
「ロンリー・ウルフ」
1980年「TOKIO」
「恋のバッド・チューニング」
「酒場でDABADA」
「おまえがパラダイス」
「ロンリー・ウルフ」
1981年「渚のラブレター」
「ス・ト・リ・ッ・パ・ー」
1982年「麗人」
「おまえにチェックイン」
「6番目のユ・ウ・ウ・ツ」
1983年「背中まで45分」
「晴れのちBLUE BOY」
「きめてやる今夜」
「渚のラブレター」
1984年「どん底」
「渡り鳥 はぐれ鳥」
「AMAPOLA」
1985年「灰とダイヤモンド」
1986年「アリフ・ライラ・ウィ・ライラ 〜千夜一夜物語〜」
「女神」
1987年「きわどい季節-Summer」
「STEPPIN’ STONES」
「CHANCE」
「どん底」
1988年「TRUE BLUE」
「Stranger -Only Tonight-」
1989年「Muda」
「ポラロイドGIRL」
1990年「DOWN」
「世界はUp & Fall」
1991年「SPLEEN 〜六月の風にゆれて〜」
1992年「太陽のひとりごと」
「太陽のひとりごと」
1993年「そのキスが欲しい」
1994年「HELLO/YOKOHAMA BAY BLUES」
1995年「あんじょうやりや」
1996年「愛まで待てない」
1997年「君を真実に愛せなくては他の何も続けられない」
「オリーヴ・オイル」
「サーモスタットな夏」
「恋なんて呼ばない」
「恋なんて呼ばない」
1998年「永遠に」
1999年「鼓動」
2000年「耒タルベキ素敵」
2001年「あの日は雨」
「まごころよりどころ 研二と慶子名義」
2002年「忘却の天才」
2003年「明日は晴れる」
「鼓動」
2004年「オーガニック オーガスム」
2005年「greenboy」
2006年「俺たち最高」
2007年「そっとくちづけを」
2008年「ROCK’N ROLL MARCH」
2010年「渚でシャララ」
「渚でシャララ」
など、数多くリリースされています。
海外進出も
ちなみに、「許されない愛」「危険なふたり」などが大ヒットを記録し、ソロとしても人気を不動のものにした沢田さんは、
「許されない愛」より。
「危険なふたり」
その後も、
「追憶」(1974)
「時の過ぎゆくままに」(1975)
「さよならをいう気もない」(1977)
「勝手にしやがれ」(1977)
「時の過ぎゆくままに」
「勝手にしやがれ」
など、ヒットを連発しているのですが、
1975年1月には、シングル「愛の逃亡者 THE FUGITIVE」をイギリスで、「MON AMOURE JE VIENS DU BOUT DU MONDE」(日本語版「巴里にひとり」)をフランスでリリース。
その後も、1978年にかけて、フランス、イギリス、ドイツ、ベルギー等でシングルを発売するなど、海外にも進出されています。
(「MON AMOURE JE VIENS DU BOUT DU MONDE」は、フランスの週間ラジオチャートでトップ4位に入り、20万枚を売り上げるヒットを記録しています。)
「MON AMOURE JE VIENS DU BOUT DU MONDE」
「勝手にしやがれ」「TOKIO」での派手なパフォーマンスで人気に
ところで、沢田さんといえば、当時、まだ珍しかった男性のお化粧ほか、「さよならをいう気もない」では、金色のキャミソールという衣装でテレビに登場したり、「勝手にしやがれ」では、かぶっていたパナマ帽を歌唱中に客席に飛ばしたり、「tokio」では、電球を体中に巻き付けるなどの派手なパフォーマンスが印象的でしたが、
(当時は、子どもが学校でマネするほど大きな話題となりました)
「さよならをいう気もない」を金色のキャミソール姿で歌う沢田さん。
「勝手にしやがれ」を歌唱中の沢田さん
「tokio」でパラシュートを背負う沢田さん
沢田さんは、そのことについて、
ザ・タイガース解散後、他のメンバーはそれぞれの道を見つけて進んでいきましたが、僕は相変わらずバンドでの活動にこだわりつつ、徐々にソロで歌うようになっていきました。
そのうち、ザ・ワイルドワンズの加瀬邦彦さんが、沢田研二個人のプロデューサーとして衣装やすべてを考えてくれるようになったんです。
化粧をしたりピアスを付けたりしたことには賛否両論ありましたが、僕はもともと男らしくない人間ですし、男だって女々しくていいじゃないかという考えです。逆に僕の中では、化粧をする、と決断することが男らしいと思っていました。
阿久悠さんや安井かずみさんなど、当時のヒットメーカーの作る詞は、誰が歌ってもきっと当たったと思います。だから僕は曲に別の価値をつけたかった。常に劣等感が付きまとっている人間だから、がんばっちゃうんですよね。
僕も負けじとアイデアを出して、それが掛け算になって、何倍もの力になっていた。それが次第に単なる足し算になって、いずれは引き算になり、割り算になる。そう感じたときに、もうやめよう、と思いました。
ファンの人や業界の中には、「いつまでも派手なジュリーでいてほしい」と言う人もいますが、パラシュートを背負ったりするパフォーマンスは、売れてるからこそ受けることであって、売れなくなってからもやり続けたら、痛々しく、みじめったらしく映ると思うんです。
そうしていたときに「芝居をやらないか」と誘ってくれる人がいて、舞台に立つようになりました。一度に数百万人が見るテレビと違い、芝居というのは、ひとつの舞台でどんなに多くてもせいぜい観客は1万人程度です。
でも芝居は、沢田研二を嫌いだったら、わざわざ電車に乗ってお金を払ってまで観には来ないだろうと。やってみて、観に来てくれる人がいる間はやってみようと思ったのです。
昔よりもずいぶん縮小はしましたが、幸いなことにイメージだけはいまだに「あの沢田研二」というのがあるので助かっています(笑)
と、明かされています。
また、「カサブランカ・ダンディ」では、洋酒を口に含んで霧を吹く、というパフォーマンスが話題となったのですが、それともう一つ、ズボンの前を開けるという演出もあったそうで、
沢田さんは、
舞台衣装で、ズボンのジッパーを開けようということになった。僕なんかわりと普通の人間だから「チャック閉めるの忘れてるわ」なんて思われないか、心配になるタイプなんですよ。
「何で開けてるの」と思われないために、ポケットボトルをわざと入れることにしたのは僕のアイデア。必ずしもかっこいいと思ってやっていたわけではないんです。あくまでテレビでの演出と割り切ってやっていました。「TOKIO」だって、コンサートで歌うときにはパラシュート背負ったりはしてませんから。
ある時、(内田)裕也さんが雑談で「マイナーなことをメジャーなところでやるのがいいんだ」と言っていたのをずっと覚えていました。それは、ローリング・ストーンズのアルバム「メイン・ストリートのならず者」にも通じること。ただ僕は、ちょっと裏通りに入ったらすごい良い店があるっていうのが好きなんです。
と、語っておられました。
「沢田研二の元妻はザ・ピーナッツの双子の姉の伊藤エミ!」に続く
「カサブランカ・ダンディ」でズボンの前を開けて歌唱する沢田さん。