高校卒業後、笑福亭松之助さんに弟子入りするも、わずか7ヶ月で内弟子修行に嫌気が差し、東京で一旗あげようと単身上京した、明石家さんま(あかしや さんま)さんですが、東京でも早々に挫折。それでも、師匠・笑福亭松之助さんの温かいバックアップにより、活路を見出します。
「明石家さんまのデビューは落語家だった!師匠は笑福亭松之助!」からの続き
笑福亭松之助の内弟子として復帰
入門7ヶ月で内弟子修行に嫌気が差し、東京で一旗揚げようと上京したさんまさんでしたが・・・
半年ほどで挫折して大阪に戻ると、師匠・笑福亭松之助さんに借りていた本を返すという口実で、松之助さんの自宅を訪ねたそうです。
すると、この時は、まだ、正式に弟子復帰とはなりませんでしたが、松之助さんには、叱られるどころか元気づけられたそうで、
その後、さんまさんが、交際していた女性が別の男性と結婚したこともあり、内弟子修行に戻ることを決意し、「なんば花月」の松之助さんの楽屋を訪ねると、
松之助さんは、
何も言うな、ついてこい!
と、ラーメン店に連れて行ってくれ、内弟子復帰を許してくれたのだそうです。
吉本興業からスカウトされる
実は、松之助さんは、さんまさんが東京へ行っている間も、
さんまが帰ってくるから、よろしゅう頼むわなぁ
と、上方落語界や吉本興業への根回しをしていたのですが、
やがて、以前から、さんまさんのことを、古典落語はおもしろくないが、
口数が少なくて人見知りするタイプ。ところが、人と交わると別人のように変わって輝く
と評価し、「ミラーボール」というあだ名をつけて、注目されていたという、「吉本興業」の社員の佐敷愼次さん(若手タレントのマネージャーのような存在だったそうです)が、
松之助さんに、
さんまを立たせたい
と、落語をやめさせて、漫談家やテレビの司会者として育成したいと、さんまさんの引き抜きを打診されると、
松之助さんは、ここでも、
好きにせぇや
と、あっさりと認められたのでした。
(さんまさんは、当時、マクラ(本題に入る前の冒頭の小噺のこと)は爆笑だったそうですが、本題に入ると全く笑わせることができなかったそうです)
「11PM」でTVデビューするも生放送中に叱られる
こうして、さんまさんは、「明石家さんま」として、1976年1月、19歳の時、「11PM」の「落語家の成人式(20歳を迎える上方落語家をゲスト出演させる)」という企画で、テレビデビューを果たすと、
進行役の海原千里(後の上沼恵美子)さんからの、
性の四十八手以外に知っている技がある人は?
という質問(フリ)に対し、さんまさんだけが手を挙げ、
逆さ十文字落としでぇーす
と、技まで説明。
すると、スタジオは爆笑の渦!
に包まれたのですが・・・司会の藤本義一さんに、
さんまかいわしか知らんけどな、テレビで言うてええことと悪いことがあんねや。それぐらい覚えて出て来い!
と、生放送中にもかかわらず、叱られてしまったのでした。
それでも、さんまさんは、この時、師匠の松之助さんから、
人と同じことして売れるはずがない。(着物ではなく)赤いブレザーを着ていけ
と言われ、赤いブレザーを着用していたのですが、
この放送を見た松之助さんは、出演者の多くが着物姿の中、忠告に従って営業用の赤いブレザーを着用し、よくしゃべっていたさんまさんが一番目立っていたと、さんまさんを絶賛されたのでした。
「明石家さんまの若い頃は小林繁の形態模写で関西でブレイク!」に続く
前列右端がさんまさん。