「PYG」「井上堯之バンド」で、凄腕のベーシストとして活躍するも、自身のミュージシャンとしての才能に自信をなくし、1975年、「井上堯之バンド」を脱退すると、ミュージシャンそのものを廃業された、岸部一徳(きしべ いっとく)さんですが、その後、俳優業に転身すると、次第に俳優としての才能を開花させていきます。

「岸部一徳は昔レッドツェッペリンのベーシストに絶賛されていた!」からの続き

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俳優へ転身し樹木希林の事務所に所属

1975年6月19日、「井上堯之バンド」を脱退すると同時に、ミュージシャンとしての活動も封印された岸部さんは、同年、プロデューサー・久世光彦さんの勧めで「悪魔のようなあいつ」でテレビドラマデビューされているのですが(「岸部修三」名義)、


「悪魔のようなあいつ」より。右が岸部さん。

久世さんに今後のことを聞かれたそうで、特にまだ何も決めていないことを伝えると、

久世さんから、

ならば、俳優をやったらどう? 悠木千帆(後の樹木希林)さんの事務所に入れてもらったら?

と、言われ、久世さんの紹介で、樹木希林さんと安田道代さんが設立した芸能事務所の面接を受けることに。

すると、面接では、樹木さんから、

生活は大丈夫ですか

あなたに合う役が来たらお願いするけれど、うちの事務所は生活のために『これをやりなさい』などは一切しない。それでも大丈夫ですか?

と、(岸部さんは、この頃すでに結婚されており、子どももいたことから)念を押されたそうですが、

岸部さんは、あまり深く考えずに、

大丈夫です

と、答え、樹木さんの事務所に入所されたのでした。

市川崑監督にも重宝される

そして、翌年の1976年には、芸名を、「岸部修三(きしべ おさみ)」から樹木さんが考案した「岸部一徳」へと改名し、俳優でやっていこうと気持ちを新たにされると、

1977年には、藤田敏八監督作品「実録不良少女・姦」で本格的に映画デビューし、1980年代には、藤田監督作品の常連俳優に。


「実録不良少女・姦」より。日夏たよりさんと岸部さん。

また、1983年には、大林宣彦監督作品「時をかける少女」に出演されたことがきっかけとなり、大林作品でも常連俳優となると、


「時をかける少女」より。

さらに、同年、市川崑監督作品「細雪」に出演したことがきっかけで、市川監督にも重宝され、着実に俳優としてのキャリアを積まれます。


「細雪」より。

映画「死の棘」で「日本アカデミー賞最優秀主演男優賞」を受賞

そして、1990年には、島尾敏雄さんの同名小説を原作とする小栗康平監督作品「死の棘」で、元特攻隊の小説家役で初の主演に抜擢されると、

精神が壊れゆく妻に向き合いつづける夫の抑制の効いた演技が評価され、「日本アカデミー賞最優秀主演男優賞」「キネマ旬報賞主演男優賞」を受賞。


「死の棘」より。松坂慶子さんと岸部さん。

これらの受賞をきっかけに、岸部さんは、演技派俳優としての地位を確立し、以降、数多くの映画やテレビドラマに出演されるようになったのでした。

そんな岸部さんは、この「死の棘」に出演されたことについて、

本気でちゃんとやらないといけないな、と思ったのは、小栗康平さんの映画「死の棘」(90年)ですね。あの作品には“むつかしい”という範囲を超えたむつかしさがありました。

小栗さんは「言葉だけでは本当の気持ちは伝わらない。むしろ黙っているほうが映画では観る人に伝わる場合もある。だからセリフは棒読みのほうがいい。感情を言葉に乗せると小さくなってしまう」と。

最初は全く意味がわかりませんでした。言われた通り棒読みでやってみると「それでいいんだよ」と言われる。でも撮影をしているときは、それでいいのかわからないんです。完成した作品を観たときに「ああ、映画はこういうことなのか」と。

小栗さんにはたくさん教えてもらいました。僕は途中からポッとこの世界に入ったので、海外の俳優の本を読んでみたりもしたんです。海外の俳優は、本当によく芝居の勉強をするんですよね。

彼らはものすごく勉強して、やっと市井の人に見えるようになる。でもそんな方法では僕には間に合わない。それより、例えば1日バスに乗って、街を歩いている人をじっと見ていたほうが勉強になる、と思ったりもしました。

と、語っておられます。

樹木希林に大きな影響を受けていた

また、ミュージシャンから俳優業に転身されたことについては、

やはり、大きい岐路といえば、音楽をやめて、俳優のほうに変わったときですね。岸部一徳の「一徳」も、希林さんがつけてくれたんです。4歳しか違わないですが、希林さんはものすごく大人に見えました。

晩年の希林さんは優しい人でしたけど、そのころは厳しい人だった。事務所の在り方も厳しくて「女優でも仕事の現場には一人で切符を買って、電車で行きなさい。そうやって世の中の仕組みも知らなければいけない」という事務所でした。

それに、希林さんは直接、何も言わない人なんです。「芝居はこうだ」とかも一切なしで、僕は希林さんやほかの人たちがどういう仕事をしているかを、ただ見ているだけ。それでもあの事務所での経験が俳優としての生き方も含めて、いまの僕の基本にありますね。

最初の数年は年に1、2回仕事があるかないか。でも、そういうものだと思っていました。僕は素人ですから、演技することがどういうことかもわからない、たまに合う役があったら、それを一生懸命やる。その繰り返しです。

生活はけっこう厳しかったですね。ザ・タイガース時代は入っただけ使っちゃうような暮らしだった。ですから、生活レベルを下げるという方法を取りました。ぜいたくをしない、外に出ない、友達と会わない。そうやってなんとか切り抜けよう、と。

子どもの世話もけっこうしていました。あの時代、海の向こうではダスティン・ホフマンや、ジョン・レノンが、彼らは子どもの世話をすごく楽しんで、普通にやっている。

「もちろん、彼らと僕とはまったく違うけど、あの人たちがやっているなら僕も……」と思ってやっていました。そうしているうちに、ちょっとずつ仕事が来るようになったんです。

と、樹木希林さんに大きな影響を受けたことも明かされていました。

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個性派俳優として活躍

ちなみに、「ザ・タイガース」のメンバーだった瞳みのるさんは、俳優業へ転身された岸部さんについて、

タイガース時代に、僕はサリーと一緒に、タイガースを描いた映画にも出演しています。自分で言うのは恥ずかしいのですが、その映画を見てくださった演劇関係者の方は当時、私の演技をほめてくださった。

一方で、「岸部は(下手で)見ていられなかった」とこぼしたんです。彼が音楽をやめた後、俳優の道を選んだことは意外だと感じました。

と、語っておられるのですが、

その通り、当初、岸部さんは、そんな素人くさい演技が独特の持ち味だったのですが、やがて、善良な庶民から冷酷な悪党までを演じこなす個性派俳優として頭角を現すと、淡々とした自然な演技でありながら、見ているものに忘れられない印象を残す名優となっていったのでした。

「岸部一徳に出演オファーが殺到する理由とは?」に続く

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