2018年4月5日に他界された高畑勲さんの「お別れ会」では、涙ながらに最後の別れを述べられた、宮崎駿(みやざき はやお)さんですが、今回は、そんな宮崎さんと高畑さんの出会いなどをご紹介します。
「宮崎駿の長男・宮崎吾朗が監督した「ゲド戦記」は30年前に断られていた!」からの続き
宮崎駿と高畑勲の出会い
宮崎さんは、1965年、「東映動画」で、先輩アニメーター・大塚康生さんの班のもと一動画マンとして、劇場用アニメ「ガリバーの宇宙旅行」の制作に参加すると、
もともと、人形型ロボットのお姫様が主人公の少年・テッドに救われて幸せに暮らす、というラストだったものを、ロボットの外皮が割れて中から人間の美少女が出てくる、という案を出し、これを自ら作画するなど、早くも演出家としての才能を発揮されているのですが、
1968年、高畑勲さんの初演出作品「太陽の王子 ホルスの大冒険」では、その並外れた資質に注目していた作画監督の大塚康生さんと、親交のあった高畑さんにより、メインスタッフの一人に抜擢。ここで、宮崎さんは、初めて高畑さんと一緒に仕事をすることになります。
高畑勲が宮崎駿の才能を発揮できるお膳立て
そんな宮崎さんは、この「太陽の王子 ホルスの大冒険」で初めて、アニメーター(兼 場面設定)として、本格的に制作に携わっており、後に、
僕はこの作品で、仕事を覚えたのだった
と、アニメーションを作る喜びを知ったと、語っておられるのですが、
宮崎さんの才能を十分に発揮できるお膳立てをしたのが、高畑さんだったのでした。
(「太陽の王子ホルスの大冒険」は商業的には振るわなかったものの、アニメ作品としての構成や作画のクオリティは、当時、群を抜いていたそうです)
高畑勲の思想に宮崎駿が傾倒していた
ちなみに、この「太陽の王子 ホルスの大冒険」は、児童向けのアニメでありながら、職種ごとに結成された団体(組合)や善悪を超えた境地を描くなど、高畑さんの当時の思想が色濃く現れている作品なのですが、
もともと、宮崎さんと高畑さんは、「東映動画」の労働組合で知り合い、組合運動を通じて、親交を深めていたことから(高畑さんが副委員長、宮崎さんが書記長を務めていたそうです)、高畑さんの思想とその思想に傾倒していた宮崎さんお二人の思想が反映された作品となっており、
日本のアニメ映画に初めて作家性が持ち込まれた
とも、評価されたのでした。
高畑勲と宮崎駿は天才演出家と天才アニメーターのタッグだった
そんなお二人は、以降もタッグを組み、高畑さんが監督・演出するもとで、宮崎さんが思い切りアニメーターとしての手腕を発揮するという役割分担のもと、アニメ映画「パンダコパンダ」(1972年)、テレビアニメ「アルプスの少女ハイジ」(1974年)、テレビアニメ「母をたずねて三千里」(1976年)と立て続けに制作されているのですが、
(宮崎さんは、「アルプスの少女ハイジ」では、ハイジの自由でのびのびとした動きや、アルプスの山々など美しい自然、トロリととろけるチーズがなんともおいしそうな食事の描写など、至るところで、天才的なアニメーター手腕を発揮されています)
高畑さんにとって、宮崎さんは、人物や動物のほか飛行機などのメカまで、どんなものでも描くことのできる、最高のアニメーター、
宮崎さんにとっても、思想を物語に落とし込んだり、キャラクターに感情表現を持たせるほか、丹念な日常生活の描写などの演出をする高畑さんは憧れの的だったようです。
「宮崎駿と高畑勲は「母をたずねて三千里」からすれ違いが生じていた!」に続く
若かりし日の高畑さん(左)と宮崎さん(右)。