「新東宝」編集部に就職し、映画編集の仕事に携わるも、早くも商業デザイナーに転身し、さらには、俳優に転身された、伊丹十三(いたみ じゅうぞう)さんですが、その後もマルチな才能を発揮し、51歳の時には、ついに「お葬式」で映画監督デビューされます。

「伊丹十三は若い頃に商業デザイナーから俳優に転身していた!」

Sponsored Link

伊丹一三から伊丹十三に改名

1960年、26歳の時、「大映」に入社して以来、「伊丹一三」名義で俳優として活動されていた伊丹さんですが、

1967年には、「マイナスからプラスに」という意味を込めて、「伊丹一三」から「伊丹十三」に改名し、引き続き、映画、テレビドラマで存在感のある脇役として活躍されると、

1970年代には、俳優業以外にも、テレビ番組制作会社「テレビマンユニオン」に参加され、紀行番組「遠くへ行きたい」などのドキュメンタリー番組やテレビCMの制作をされます。

レポーターや雑誌「モノンクル」の編集長も

また、1970年代後半には、お昼の情報番組「アフタヌーンショー」で、未解決事件コーナーのレポーターとして出演されると、緻密な取材で司会者を驚かせ、

1981年には、精神分析を軸にした、雑誌「モノンクル」を創刊し、編集長に就任。


モノンクル 創刊号

1983年には、俳優としても、「家族ゲーム」「細雪」「キネマ旬報助演男優賞」を受賞されるなど、多方面で才能を発揮されます。


「家族ゲーム」より。(左から)由紀さおりさん、伊丹さん、松田優作さん。

映画監督デビュー作「お葬式」でいきなり高評価を受ける

そして、1984年、51歳の時、映画監督に転身し、「お葬式」で監督デビューされると、いきなり、「日本アカデミー賞監督賞」「日本アカデミー賞脚本賞」「キネマ旬報ベスト1」ほか、数多くの映画賞を総なめにするなど、高い評価を受けたのでした。


「お葬式」より。宮本信子さんと山崎努さん。

ちなみに、この作品は、葬式を出すことになった夫婦のひと騒動を、皮肉を交えながら描いているのですが、伊丹さんが妻・宮本信子さんのお父さんのお葬式を取り仕切った際に得たインスピレーションを元に制作されたのだそうです。

(厳密には、伊丹さんの初監督作品は、1962年、「伊丹一三」名義で発表された「ゴムデッポウ」で、2011年、「第24回東京国際映画祭」で特別上映されています。)


「ゴムデッポウ」より。

Sponsored Link

妻・宮本信子を主演とした「伊丹映画」を確立

そんな伊丹さんは、その後も、

1985年「タンポポ」
1987年「マルサの女」
1988年「マルサの女2」
1990年「あげまん」
1992年「ミンボーの女」


「マルサの女」より。宮本信子さんと津川雅彦さん。

と、妻・宮本信子さんを主演とした映画を数多く制作されているのですが、伊丹さんはかねてから宮本さんの女優としての才能を高く評価しており、ずっと脇役に甘んじていた宮本さんを主演にした映画づくりを考えておられたのだそうです。

そして、これらの作品は、いずれも日本の社会に根付く問題を描きながらも、エンターテイメント性に富む作風で人気を博し、伊丹さんは、「伊丹映画」というブランドを確立したのでした。

「伊丹十三は「ミンボーの女」公開直後に襲撃を受け重傷を負っていた!」に続く

Sponsored Link