大学卒業後、ラジオ局「ニッポン放送」に入社すると、アシスタントディレクターとして、ドラマやコントを同時に6本手がけるなど多忙な毎日を送りつつ、帰宅後、睡眠時間を削って、テレビの脚本を書き続けていた、倉本聰(くらもと そう)さんですが、1963年には、会社に内緒で脚本を執筆したテレビドラマ「現代っ子」が大ヒットを記録します。
「倉本聰は昔ラジオ局時代に誤って未放送分の録音テープを消去していた!」からの続き
テレビドラマ「パパ起きてちょうだい」で脚本家デビューしていた
1959年、24歳の時、ラジオ局「ニッポン放送」に入社にすると、アシスタントディレクターとして多忙な毎日を送っていた倉本さんですが、初任給は1万2360円と薄給だったことから、生活は苦しかったそうで、
そんなある時、担当番組の構成作家の筆が遅く、しびれを切らして待っていると、
先輩から、
台本を代わりに書いてアルバイト代を頂戴したらいい
と、アドバイスされたそうで、
早速、このアイディアを受け入れ、会社に内緒でアルバイトを始めると、
(そのお陰で生活が少し楽になったそうです)
なんと、前述の構成作家に見込まれ、「パパ起きてちょうだい」というテレビドラマのシナリオを任されることになったそうで、
倉本さんは、(会社には内緒ながら)同年、早くも、「倉本聰」として、この「パパ起きてちょうだい」で、(テレビドラマの脚本家として)デビューを果たします。
テレビドラマ「現代っ子」の大ヒットがきっかけでニッポン放送を退職
すると、1963年には、会社に内緒のまま、脚本を執筆していたテレビドラマ「現代っ子」が視聴率30%を超える大ヒットを記録したそうですが、
「現代っ子」より。
それでも、倉本さんは、相変わらず、会社には毎朝8時半に出勤して晩10時くらいまで働いた後、自宅でシナリオを書き、午前4時頃に就寝するという、睡眠時間が2時間という生活を続けられたそうですが、
2年が経ち、さすがに「もたない」と感じ始めていた頃、部長に呼ばれると、若手の脚本家ではなく、(脚本家同士)顔見知りのベテランの脚本家ばかり起用していたことを咎(とが)められたうえ、
最近、倉本という作家がいい本を書いているから、会いに行ってこい
と、言われたそうで、
自分が倉本(本名は山谷馨)だと会社にバレるのは、いよいよ時間の問題だと感じ、会社を辞め、独立することを決意。1963年に、「ニッポン放送」を退職されたのでした。
ちなみに、倉本さんが「ニッポン放送」を退職した理由は諸説あるのですが、岡田茂さん(「東映」の映画プロデューサーで後に「東映」会長)の自伝には、
「ニッポン放送」のラジオライターで一生終わりたくない、「東映」に籍を置かせてほしい
と、倉本さんが、東京大学時代の親友で映画監督の中島貞夫さんを介して頼んできたと、書かれてあるそうです。
ニッポン放送退社後はフリーの脚本家として活動
そんな倉本さんは、その後、フリーの脚本家として活動されたそうで、
1964年「0戦はやと」
1965年「チコといっしょに」
「勝海舟」※NHK大河ドラマ「勝海舟」とは別の作品
「青春とはなんだ」
1966年「千姫」
「これが青春だ」
1967年「文五捕物絵図」
「太陽野郎」
1969年「颱風とざくろ」
1970年「わが青春のとき」
「君は海を見たか」
「砂の城」
1971年「2丁目3番地」
「挽歌」
1972年「赤ひげ」
「ぜんまい仕掛けの柱時計」
「2丁目3番地」より。浅丘さんと石坂浩二さん。
1973年「ガラス細工の家」
「白い影」
「ぶらり信兵衛 道場破り」
「ガラス細工の家」より。岸田今日子さんと高橋昌也さん。
と、次々に脚本を執筆されたのでした。
「倉本聰は「勝海舟」で病気の渡哲也を休ませ松方弘樹を口説き落としていた!」に続く
脚本家になったばかりの頃の倉本さん。(ニッポン放送時代)