15歳の時、近所のおばさんに勝手に書類を応募されたことがきっかけで、ジャニー喜多川さんに見初められ、あれよあれよと、芸能界デビューされた、郷ひろみ(ごう ひろみ)さんは、この後も順調にヒット曲を連発し、あっという間にトップアイドルになられます。今回は、そんな郷さんの主なヒット曲を画像でご紹介します。
「郷ひろみの若い頃はジャニーズから「男の子女の子」でデビュー!」からの続き
「よろしく哀愁」がオリコン週間チャート第1位
15歳の時に「ジャニーズ事務所」に入所すると、翌年には早くも、「男の子女の子」でアイドル歌手デビューされた郷さんは、
その後も、
1972年11月「小さな体験」
12月「天使の詩」
1973年3月「愛への出発」
6月「裸のビーナス」
9月「魅力のマーチ」
12月「モナリザの秘密」
1974年3月「花とみつばち」
6月「君は特別」
9月「よろしく哀愁」
12月「わるい誘惑」
と、立て続けにシングルをリリースされると、
1973年には、「裸のビーナス」が「第4回日本歌謡大賞」の放送音楽賞を受賞するほか、ブロマイドの年間売上実績1位に。
1974年には、「よろしく哀愁」が自身初のオリコン週間チャート第1位を獲得するなど、西城秀樹さん、野口五郎さんとともに「新御三家」と呼ばれ、一躍、トップアイドルの仲間入りを果たします。
ジャニーズ事務所を退所しバーニングプロダクションに移籍
ただ、あっという間にトップアイドルとしての地位を確立されたが故に、デビューして3年たった頃に、自分の力量のなさに気づき、
歌えていないし、踊れていない。このままでは長く歌い続けるのは難しい。
と、危惧し始めたそうですが、
ブームが去るまで郷さんにアイドル活動を続けてほしい「ジャニーズ事務所」とは意見が合わなくなっていき、18歳の時(1975年3月末)には、契約は更新せずに「ジャニーズ事務所」を退所。4月から「バーニングプロダクション」に移籍されたのでした。
ちなみに、「バーニングプロダクション」の周防郁雄社長は、郷さんが移籍された経緯について、
郷ひろみが人気が出たあと、ジャニーさんとトラブルになったらしい。彼がどんな経緯で辞めたのかはよく知りませんが、ぼくは当時、松竹芸能とある大手プロダクションが、彼のマネージメントを引き受けることになった、と耳にしたんです。
しかし、いろいろと調べてみたところ、どうもその情報は間違っていて、移籍先はまだ決まっていなかったらしい。
僕としても、郷ひろみは是非うちでやりたい、という思いがありました。
(渡辺プロダクション渡辺晋社長の妻の)美佐さんに、メリーさん(ジャニーズ事務所の副社長)を呼んでもらいました。
そこで「メリーさん、私に(郷ひろみを)やらせてください」と頼んだら「いいわよ」と言ってくれた。
ですから、僕は、ジャニーズ事務所とは全く揉めていないんです。
と、明かされています。
「マイレディー」「お嫁サンバ」「2億4千万の瞳」などが大ヒット
さて、「バーニングプロダクション」に入った郷さんは、早速、19歳から、スキルアップのため、年1回ニューヨークでヴォイストレーニングを受け始めたそうですが、自身では成果を感じず。
それでも、シングルは次々とリリースされると、
1976年11月「あなたがいたから僕がいた」
1978年6月「林檎殺人事件」
1979年9月「マイレディー」
1981年5月「お嫁サンバ」
1982年7月「哀愁のカサブランカ」
1984年2月「2億4千万の瞳-エキゾチック・ジャパン-」
などが大ヒットしています。
バラード3部作がロングヒット
その後、しばらく、ヒット曲に恵まれない時期が続くのですが、
1993年、65枚目のシングル、「僕がどんなに君を好きか、君は知らない」がヒット(17.7万枚)すると、
1994年「言えないよ」
1995年「逢いたくてしかたない」
とリリースした「バラード3部作」がロングランヒットを記録。
郷さん自身も、この頃、
ようやく歌えるようになってきたかな
と、納得できるようになったのだそうです。
「GOLDFINGER ’99」が大ヒット
そして、ノリにノッた郷さんは、1999年には、前作「バラード3部作」とは打って変わり、リッキー・マーティンの「リヴィン・ラ・ヴィダ・ロカ(Livin’ la Vida Loca)」のメロディに日本語の歌詞をのせた、76枚目のシングル「GOLDFINGER ’99」をリリースされると、40万枚を超える大ヒットを記録。
(サビの「ACHICHI ACHI」は、郷さんがアイディアを出されたそうです)
以降、2020年までに105枚ものシングルをリリースされ、現在も精力的に歌手として活動されています。
「郷ひろみが若い頃は松田聖子と真剣交際!二谷友里恵とも結婚していた!」に続く