息子・なべやかんさんに「明治大学替え玉受験」をさせたイメージがいまだ色濃く残る、なべおさみさんですが、若い頃は、俳優、タレント、コメディアンとして、幅広く活躍されていました。今回は、そんななべさんの足跡を少年時代から追っていきます。
年齢は?出身は?身長は?
なべさんは、1939年5月2日生まれ、
東京府東京市大森区(現・東京都大田区)のご出身、
身長161センチ、
体重65キロ、
靴のサイズは26センチ、
血液型はB型、
学歴は、
鯉淵国民学校
⇒大田区立六郷小学校
⇒大田区立大森第八中学校
⇒都立大森高校
⇒明治大学文学部卒業
趣味は、
映画鑑賞 映画のパンフレット収集、だそうです。
本名は?芸名の由来は?
なべさんの本名は、「渡辺修三(わたなべ おさみ)」なのですが、なべさんが、勝新太郎さんの付き人だった時代、ある時、勝さんに本名の「渡辺」を名乗って電話したところ、勝さんが、「渡辺プロダクション」の渡辺晋社長だと勘違いしてしまい、
お前は渡辺じゃねえ、ただのなべだ
と叱られたそうで、それ以来、「なべ おさみ」となったのだそうです(笑)
幼少期は小柄も負けん気が強く頭が良い少年だった
なべさんは、煙突工場を経営するお父さんのもと、3人兄弟(兄と姉)の次男として東京で誕生するのですが、太平洋戦争が激しさを増し始めると、4歳の時には、一家で茨城県の鯉淵村(現在は内原町)というところに疎開。
(終戦後は、工場再建のため、お父さんだけが東京に戻ったそうです)
疎開先では、小柄だったなべさんは、軽く見られることを嫌い、喧嘩に明け暮れる日々を送ったそうで、小学校の入学式では、なめられないようにと、一番体の大きい子を殴ったりしたそうです。
また、なべさんは、常に空腹だったことから、東京から時々帰ってくるお父さんのおみやげである少年雑誌を友達に貸し、その見返りとして、食べ物を手に入れることを思いついたそうで、
当時、茨城県の鯉淵村は田舎で、東京の文明は浸透しておらず、行ったことも見たこともない憧れの街である東京の香りがつまった雑誌は、一日貸すだけで、なべさんが望むだけの、かき餅、乾燥芋、干し芋がもらえたのだそうです。
小学校時代は飽きっぽい性格も成績優秀だった
そんななべさんは、集中すると何でも短時間で暗記することができたそうで、学校での成績は良かったそうですが、飽きっぽくてすぐに興味が失せてしまい、気が別のところに移ってしまうため、たったの一学期でも長すぎて、良い子にしていることができず、
成績表の余白に、先生から、
来学期は皆の模範になるようにやって欲しい
などといった注意事項がびっしり書き込まれたそうですが、
次の学期の中頃くらいから、先生の望み通りに過ごすと、
先生は、成績表に、
教室の皆の模範となりました
期待しています
と、書いてくれたのだそうです。
父親のご褒美で上京すると日劇の舞台に魅了される
すると、お父さんも大変喜んだそうで、ご褒美としてお小遣いをくれ、東京の映画館に連れて行ってくれることに。(この時、お姉さんも一緒だったそうです)
ただ、お父さんは、この時、東京・品川区在原中延にあった工場を大田区の六郷に移すのに忙しく、子どもたちにかまっている暇がなかったことから、お姉さんの希望で、映画ではなく「日劇」のお芝居を観ることになったそうで、なべさんは、お姉さんとともに上京。
すると、戦後間もない東京は赤茶けた焼け跡だらけで、なべさんは子供心に「色がない」と思ったそうですが、
一夜明け、「日劇」の舞台を観劇すると、
心を奪う五色の色彩が飛び交っていた。光を浴びた色彩豊かな服装や背景には、色が在った。
と、なんとも言えぬ美しさに衝撃を受け、
同時に、それを楽しむ人々と楽しませる人々を見て、
あの舞台に立ちたい!
楽しませる人になりたい。
と、心から思ったそうで(昭和24年秋小学4年生の時のことだったそうです)、
お芝居が終わり、お姉さんとともに劇場の表に出たなべさんは、二人並んで有楽町の新橋寄りのホームの端に立っていたそうですが、その時、夕暮れの銀座にパッとネオンが輝いたそうで、その美しさはなんと表現したら良いのか分からないほどで、なべさんには、そのネオンが、赤、緑、桃色に輝くステージのように感じられたのだそうです。
「なべおさみは小5にして「金偏糸偏景気」の噂から鉄屑集めを思いついていた!」に続く