ひょんなことで、「三木トリロー事務所」でコント書きとして採用された、なべおさみさんですが、やがて、人気歌手・水原弘さんに付き人として誘われ、「渡辺プロダクション」に入ると・・・

「なべおさみは大学時代に放送作家としてデビューしていた!」からの続き

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便器掃除で大学を卒業していた

「三木トリロー事務所」で三木鶏郎さんに勧められ、コントを書くようになったなべさんですが、書いても書いても、ほとんどお金にならず、

それでも、部屋代、生活費、大学の授業料は捻出しなければならなかったため、部屋を借りていた千駄ヶ谷で、半ば強引に便器掃除をさせてもらったそうで、便器掃除に明け暮れる日々を送ってなんとか大学を無事卒業することができたそうです。

人気歌手・水原弘に付き人として移籍を誘われる

すると、やがて、仕事も軌道に乗り、ラジオ番組の構成や「冗談工房」(三木トリロー事務所)のコント書きに追われる日々を送ったそうですが、

1960年春、歌手の水原弘さんから、

マナセプロを辞めて渡辺プロに行くから、俺と一緒に青雲の志を抱けよ

と、付き人として「渡辺プロダクション」への移籍を誘われたそうで、

(水原さんは前年の1959年、デビュー曲「黒い花びら」が、いきなり「第1回日本レコード大賞」を受賞し、一躍スターダムに駆け上った人気歌手。ただ、その後、飲酒、ギャンブル、多額の借金などで身を持ち崩し、42歳の若さで他界されています)

人気歌手からのお誘いに心が揺れ、

きゅうげつは幾ら下さる・・・(月給は幾ら下さるのですか)

と、バンド仲間の隠語で尋ねたところ、

(なべさんが隠語を使ったのは、目の前の大スターにお金のことを堂々と聞くことがはばかられたのと、江戸っ子だったなべさんは、金銭の高を嫌っていたため、気後れがあったことから)

水原さんは、「幾らだよ」と答える代わりに、なべさんの目の前にすーっと片手を伸ばし、広げた5本の指から親指だけを折り曲げたそうで、

4万円!

と、その瞬間、なべさんは、「渡辺プロダクション」への移籍を決意。

なべさんが、水原さんに右手を差し出すと、水原さんもその手を握り返したそうで、ここで契約が成立したのだそうです♪(と同時に、師と弟子の関係が成立したのだそうです)

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勝新太郎のもとで修業を開始

こうして、なべさんは、水原さんの付き人として芸能界に入ったのですが・・・

水原さんの付き人となって、初仕事の日、生まれて初めて乗る特急列車で京都に向かうと、京都の東の山麓にある都ホテルで、勝新太郎さん・若山富三郎さん兄弟を紹介されたそうで、あまりに突然のことに、さすがのなべさんも、すっかり上がってしまったそうです。

すると、勝さんが、

お水!(水原さんのこと)お前はまだ弟子を取った事がないんだから、俺がなべを仕込んで、お前に返してやろう

と、言ったそうで、

否応(いやおう)なく、この日の夜から、なべさんは、京都・嵐山近くにあった勝邸での住み込み修業を開始させられることになったのだそうです。

(しかも、後に、水原さんが出した4本の指は、4万円ではなく4千円だったことを知り、愕然としたのだそうです(笑))

「なべおさみが若い頃は渡辺プロダクションの隠密をしていた!」に続く

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