俳優を目指して「舞台芸術学院」に通うかたわら、生活のため、「歌声喫茶」でアルバイトをしていた、上條恒彦(かみじょう つねひこ)さんですが、マスターからの勧めで俳優から歌手に転身することを決意すると、その後、あれよあれよと、スターダムへの階段を駆け上がられます。
「上條恒彦は昔「食える」の一言で俳優から歌手に転身していた!」からの続き
「六文銭」との「出発の歌(たびだちのうた)」がグランプリ受賞
幼少期を通して、食べる物にも事欠く生活が長かったことから、「歌声喫茶」のマスターの、「歌をやれば何とか食えるようになるかもしれない」という言葉が重く響いた上條さんは、
一念発起、役者から歌手ヘと方向転換し、1964年3月から「勤労音楽協議会」(=労音…音楽鑑賞団体)で勤務するようになると、(その後の詳しい経緯は不明ですが)1968年には「キングレコード」の専属歌手に。
すると、翌年の1969年には、「雨よふれ」でレコードデビューを果たし、NHKの音楽番組「ステージ101」でいきなりレギュラーに抜擢と、早くも歌手として頭角を現します。
「雨よふれ」
そして、1971年には、「ポピュラーソング・フェステバル’71」で、小室等さん率いる音楽ユニット「六文銭」とユニットを組み、リードヴォーカルを務めた「出発の歌(たびだちのうた)~失われた時を求めて~」が、いきなり、グランプリを受賞。
続く、同年11月にも、「第2回世界歌謡祭」でグランプリと歌唱賞を受賞されたのでした。
「出発の歌~失われた時を求めて~」
時代劇「木枯し紋次郎」の主題歌「だれかが風の中で」がヒット
そして、1972年1月、シングル「だれかが風の中で」(時代劇「木枯し紋次郎」の主題歌)をリリースすると、ドラマが高視聴率を記録したことと相まって、約23万枚を売り上げるヒットを記録。
同年末には、「第23回NHK紅白歌合戦」に初出場を果たすなど、上條さんは、たちまちスターダムへと駆け上ったのでした。
「だれかが風の中で」
「だれかが風の中で」は小室等による抜擢だった
ちなみに、「木枯し紋次郎」は、制作総指揮の市川崑監督が、時代劇にするのではなく、むしろ西部劇にする、という方針のもと作られたそうで、
その主題歌も、これまでの時代劇の主題歌とは一線を画すものをと、妻であり脚本家の和田夏十さんに作詞を依頼され、和田さんが、連用中止法を駆使して感情のほとばしりを表現しつつ、孤独ながらも力強く生きる紋次郎の姿を通して、希望に満ちた人生を謳歌する芯のある歌詞にまとめ上げられると、
市川監督が、その完成した歌詞を、音楽ユニット「六文銭」の小室等さんに持ち込み、作曲を依頼したそうですが、
小室さんは、この前年に上條さんと組んだ即席のユニットが、「出発の歌」で「第2回世界歌謡祭」のグランプリと歌唱賞を受賞したこと、上條さんと仕事がしやすかったこと、グランプリ受賞がまだ人々の記憶に新しく、話題性も十分に期待することができたことから、歌い手に、迷わず上條さんを起用すると、
上條さんの力強い熱唱ぶりは、市川監督の狙い通り、従来のテレビ時代劇の主題歌とは一線を画したものとなったそうで、その新鮮さが人々の心を掴み、幅広い支持を得たのでした。
「上條恒彦のデビューからの出演映画ドラマ舞台を画像で!」に続く