1973年、原作者・花登筺(はなと こばこ)さんにより、直々に、テレビドラマ「どてらい男」の主人公に抜擢されると、テレビドラマは高視聴率を記録し、俳優としても脚光を浴びた、西郷輝彦(さいごう てるひこ)さん。今回は、西郷さんの役者としての才能を見出し、磨いてくれた花登筺さんとの出会いなどについてご紹介します。
「西郷輝彦は若い頃「どてらい男」が大ヒットしていた!」からの続き
花登筺との出会い
西郷さんは、1972年1月、大阪梅田コマ劇場で行われた1ヶ月公演「おけら火」に出演されているのですが、花登さんとは、この「おけら火」で、初めて舞台の台本をお願いしたことで知り合われると、
(西郷さんは、それまで、歌が中心の、歌と芝居がセットになった公演をされていたそうですが、「おけら火」は、初めての本格的なお芝居だったそうです)
この舞台での西郷さんの演技を見た花登さんが、さっそく、「どてらい男」の原作本を持ってきて、「やってみないか?」と誘ってくれたそうで、西郷さんは、原作本のおもしろさに引き込まれ、一も二もなく、引き受けられたそうです。
舞台稽古の厳しさに唖然としていた
すると、1973年に放送されたテレビドラマ「どてらい男(やつ)」は、最高視聴率35.2%という大ヒットを記録したことから、翌年の1974年以降には、東京、大阪、名古屋で次々と舞台化されることが決定。
西郷さんは、もちろん、舞台でも主人公・山下猛造役を演じることになるのですが、原作者の花登筺さんから、今でも忘れられない稽古をつけられたそうで、
舞台稽古初日、西郷さんは、
テレビドラマでやっていることだ、舞台になっても大丈夫だろう
と、自信たっぷりだったそうですが、
実際は、テレビドラマと舞台ではまったく違っていたそうで、舞台稽古の厳しさに、西郷さんは、唖然とするばかりだったそうです。
脚本が間に合わず「口立て」で稽古していた
というのも、当時、売れっ子の作家だった花登さんの台本は間に合わないことが多く、西郷さんは、その場でセリフを作っていく、「口立て」と言われる方法で稽古をしなければならなかったのだそうです。
例えば、
はい、西郷君、そこに立って、「ワレそんなこと言うてへんぞ」 そう言いなさい
はい、次はこっちへ七歩、歩き、「そやから言わんこっちゃないんじゃ」だ
といったようなやりとりが延々と続いたそうで、
びっくりした西郷さんは、慌てふためいてメモを取ろうとしたそうですが、早口でまくしたてる花登さんの口立てには、とてもついていくことができなかったのだそうです。
やがて、見るに見かねた先輩役者から、
頭で覚えな、頭で
と、言われ、
西郷さんは、
いや、しかし、それでは後になって大変じゃないですか
と、言い返したそうですが、
その先輩役者は、
ええねん、先生のセリフはな、また変わるんやから
と、教えてくれたそうで、
実際、舞台稽古初日に「口立て」で練習したセリフの多くは、公演が始まり、千秋楽に至るまでに、ほとんど変えられてしまっていたのだそうです。
花登筺から教わった忘れられない言葉
ちなみに、西郷さんには、花登さんから何度も言い聞かせられた、今でも忘れられない言葉があるそうで、
それは、
いいか、西郷君、いつも客席から見た舞台の絵を自分の頭の中に思い浮かべなさい。そうやって演技を考えなさい
つまり、テレビはカメラが撮ったシーンしか視聴者は見ることができないが、舞台はそこに出演している役者全員の動きが観客には一目瞭然に分かるため、常に自分の動きを意識しておかなければならないということ。
そして、花登さんは、
客を泣かせるのは簡単だよ。でも笑わせるのは難しいんだ。西郷君はまだまだ間が悪い。笑わせて泣かせる、いい二枚目。西郷君が目指すのはそれなんよ
とも、言っていたそうで、
西郷さんは、演じることの難しさ、奥深さを、花登さんから教わったのだそうです。
花登筺への想い
そんな花登さんも、1983年、肺ガンのため、55歳という若さで他界されているのですが、
西郷さんは、著書「生き方下手」の中で、
睡眠薬を使って眠りにつく人は多いが、眠らないための薬を服用していた人は、花登先生以外にぼくは知らない。台本・脚本の原稿書きはほとんどが移動中であったことから、「新幹線作家」とか「カミカゼ作家」と呼ばれたこともあった。
けれどぼくは知っている。花登先生ほど芸に厳しく、そして人間に優しい人はいなかったことを。京都で演じる「どてらい男」の「山下猛造」は、実は花登先生そのものでもあった
と、綴られています。