結婚して家庭に入ることが昔からの夢で、芸能界に嫌気が差していたこともあり、人気絶頂時にも関わらず、引退して、歌手の西郷輝彦さんと結婚することを選んだ、辺見マリ(へんみ まり)さんでしたが・・・

「辺見マリは旦那の西郷輝彦にベタ惚れだった!」からの続き

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ひっそりと引退していた

結婚後は芸能界を辞めて家に入ると決めていた辺見さんは、1971年12月31日、宝塚劇場で行われた、「クレージー・キャッツ」への出演を終えると、

(前年の1970年は「NHK紅白歌合戦」に出場することができたそうですが、1971年は、結婚し、引退が決まっている歌手を事務所が推してくれるはずもなく、「紅白」に出ることはできなかったそうです)

東京駅の隣にあった国際ホテルに1泊し、翌日には新幹線で京都へ戻ったそうで、これで引退となったそうです。

(引退を知っていたのは、事務所関係者だけだったことから、見送りもマネージャー1人だけだったそうです)

結婚式は軽井沢で辺見の両親と西郷の友人1人と女性週刊誌の記者1人だけで

こうして、ひっそりと引退した辺見さんは、京都に戻った後は、花嫁修業をしながら、結婚式の日を待ったそうで、1972年2月11日には、長野県軽井沢にある「聖パウロ教会」で挙式。

ちなみに、出席者は、辺見さんの両親、西郷さんの友人1人、女性週刊誌の記者1人だけという、アットホームなもので、マスコミにも一切知らせていなかったことから、「電撃婚」と大きな話題になったそうです。

(西郷さんの両親は、この結婚に反対だったため出席されていません)

新婚生活に幸せを感じていた

そして、結婚後、ほどなくして、辺見さんは男の子を出産するのですが・・・

西郷さんは仕事が忙しく、なかなか新婚生活をゆっくり過ごす時間が取れなかったそうです。

それでも、たった一日だけ、辺見さんの夢が完璧に叶った日があったそうで、

夕方、西郷さんが仕事を終えて家に帰ってきた時、

おフロにします?それともごはん?

と、辺見さんが出迎えると、その横では子どもが笑っている、という光景で、それは、とても幸せな時間だったそうです。

西郷輝彦が家に帰って来なくなっていた

その後、なかなか夫婦の時間が取れない中でも、2人目の子ども(女の子)が誕生するなど、幸せな結婚生活を送られているかと思われたのですが・・・

いつ頃からか、西郷さんは家を空けることが多くなり、やがては、何の連絡もなく帰って来なくなったそうで、

辺見さんは、西郷さんがどこにいるのかも分からず戸惑い、なんとか、人づてに、

お願いだから帰ってきてください

と、連絡してもらい、西郷さんに帰ってきてもらうと、夫婦で話し合ったそうです。

しかし、どんなに忙しくても、数ヶ月に一度くらいは両親に子どもを預け、夫婦二人の時間を持ちたかった辺見さんに対し、仕事が充実し、そういう奥さんの要求が重荷になっていた西郷さんとの話し合いは噛み合わなかったそうで、

辺見さんは、お互いの言い分はあるにしても、

私も改めるところは改めますから、お互い考えましょう

と、妥協点を模索していたそうですが、

そうこうするうちに、西郷さんが再び蒸発したそうで、

辺見さんは、この頃のことを振り返り、

毎晩、一人で待っていると、どんどん顔が変わっていくのが分かりました。鏡に映る顔が自分でも恐ろしくなるほど。

この顔を毎日、自分の子供たちに見せているのかと気が付いた時は、身の毛がよだつ思いでした。

と、明かされています。

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西郷輝彦が3回目の蒸発~別居2年~離婚

その後、辺見さんは、1人で家に閉じこもり、悩む日々が続いたそうですが、

(まだ幼稚園児だった息子さんに、「お母さん大丈夫だよ、僕がついてるから」と慰められるほど、追い詰められていたそうです)

やがて、

人に頼ってるばっかりじゃいけない、子供たちのためにも私がしっかりしなきゃ

と、思い始めるようになったそうで、再び、仕事を始めようと思ったそうですが・・・

このことが、もともと、奥さんには家庭を守って欲しいと強く望んでいた西郷さんとの関係をさらに悪化してしまったそうで、西郷さんは3回目の蒸発。

西郷さんは、3回目の蒸発の時、

いいから俺の荷物は全部送ってくれ

と、話し合う余地もないほど殺伐(さつばつ)としていたそうで、それ以来、二度と帰って来ることはなく、そのまま2年の別居生活を経て、1981年、ついに離婚となったのでした。

「辺見マリと西郷輝彦の離婚原因は辺見と西郷の両親の関係だった?」に続く

仲睦まじい様子の西郷輝彦さんと辺見さん。

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