1977年7月11日、日比谷野外音楽堂でのコンサートで、突然、解散宣言をすると、翌年の1978年4月4日に行われた後楽園球場での解散コンサートには、5万5千人ものファンが詰めかけるなど、人気絶頂の中で解散した、伊藤蘭(いとう らん)さんたち「キャンディーズ」ですが、この突然の解散の原因はどのようなものだったのでしょうか。

「伊藤蘭は「キャンディーズ」で突然解散宣言をしていた!」からの続き

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3年で(最年少の田中好子が20歳になったら)解散すると決めていた

実は、伊藤さん、藤村美樹さん、田中好子さんの3人は、デビュー時に、売れても売れなくても、3年で解散しようと決めていたのだそうです。

というのも、当時、アイドルは20歳まで、という暗黙の了解があったそうで、3年後には、一番年下の田中さんが成人を迎え、全員が大人になることから、その年を節目に、アイドルを卒業しようと考え、3人ともアイドル(または歌手)を一生の仕事にしようとは思っていなかったのだそうです。

伊藤蘭は内気な性格からファンやメディアの注目が辛かった

特に、伊藤さんは、幼い頃から内気な性格だったため(いったんは克服したものの)、当初は、(あまり人気がなかったこともあり)芸能活動を青春の思い出の1ページにしよう、というくらいの気持ちだったそうで、ずっと、普通の女の子の気持ちを持ち続けていたそうですが、

(女優には憧れていたそうです)

思った以上に人気が出てしまったことで、ファンの視線やメディアからの注目が想像以上に辛く、順調な活動中も心から楽しむことができなかったうえ、寝る暇もなく働かせられ続けたことにも嫌気が差し、「普通の女の子に戻りたい」と本気で思うようになっていたのだそうです。

事務所に黙って突然解散宣言をした理由とは?

また、当初、1973年9月にデビューしてから3年後の1976年9月30日までの「渡辺プロダクション」との契約は、1976年3月に発売した「春一番」の大ヒットで、契約を1年延長したものの、1977年9月30日までとなっていたことから、伊藤さんたち「キャンディーズ」は、契約どおり、1977年9月末で解散したかったそうですが、

翌年3月まで仕事を入れられていたほか、9月末の解散を認めない「渡辺プロダクション」との話し合いがうまくいかなかったそうで、「キャンディーズ」は、1977年7月17日、日比谷野外音楽堂で解散宣言をするという強行突破に出たのだそうです。

そして、その後、再び「渡辺プロダクション」と交渉するも、結局、「キャンディーズ」が折れ、半年延長の翌年1978年3月まで仕事をし、1978年4月4日の「解散コンサート」をもって、ようやく解散となったのだそうです。

ちなみに、伊藤さんは、この解散について、

当時はすごく追い込まれていたから(ファンの気持が)わからなかった。でも、今になって思うことですが、キャンディーズを愛してくれたファンの方にとっては、やっぱり衝撃だったわけですよね。

わかっていたつもりでも想像しきれてなかったと思います。押し通してしまい、いろいろ大変なことがありましたが、それは全部自分たちで引き受けないといけないことでした。

今振り返ると、解散したこと自体は良かったのですが、ファンの方たちに衝撃を与えてしまったという「想(おも)い」は、ずっと胸の中にあります。

と、語っておられます。

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「普通」という感覚を持ち続けたかった

ところで、伊藤さんは、こだわり続けた「普通」という感覚については、

人が人として感じる当たり前の気持ち。おかしなことはおかしい、正しいことは正しいと感じられる心っていうのかな。

と、語っており、

芸能界で仕事をして、様々なことに巻き込まれていくうちに、普通の感覚を持ち続けることが、出来そうで出来なくなってしまっていたそうで、とても尊いことだと思われているとのことでした。

「伊藤蘭のデビューからの出演ドラマ映画を画像で!」に続く

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