1864年、元治(げんじ)元年から続く由緒ある医家の出身で、勤務医をしていたお父さんと、実家が「出雲大社」の専属写真館を経営していたお母さんのもと、長男として誕生した、佐野史郎(さの しろう)さんは、幼少期は、芸術を愛する両親の影響を受けながら、裕福な家庭で何不自由なく育ったといいます。
「佐野史郎の記憶力が凄すぎる!0歳の時の事まで覚えている?」からの続き
幼少期は勤務医だった父親の転勤で度々引っ越し
元治元年から代々続く医師の家に誕生した佐野さんは、当時、勤務医だったお父さんの勤務先だった山梨県山梨市に、3人兄弟(弟と妹)の長男として誕生するのですが、佐野さんが生後2ヶ月の時には、東京・世田谷区代田橋(だいたばし)に転居。
さらにその後も、2歳の時には、東京・練馬区の桜台に引っ越すと、小学校1年生の3学期には、お父さんが実家の医院を継ぐことになり、島根県松江市に移り住むなど、幼い頃は度々引っ越しされたそうです。
幼少期は裕福な家庭で何不自由なく育つ
そんな佐野さんは、ヴァイオリンをたしなんでいたお父さんと、ピアノが好きだったお母さんが、よく、クラシック音楽を聴いていたことから、音楽を身近に感じつつ、
自分で設計図を引き、秋葉原に行って集めた部品で、真空管ラジオや電気蓄音機を楽しそうに手作りするお父さんを見て、育ったそうで、優しい両親のもと、裕福な家庭で、幸せな少年時代を過ごされたそうです。
幼少期は写真が趣味だった父親の現像を手伝っていた
また、お父さんは、写真が趣味で、結婚をきっかけに、ミノルタの二眼レフカメラと現像や引き伸ばしの機材を揃え、新婚時代の写真や、佐野さんが生まれてからは幼い佐野さんの写真をたくさん撮り、自分で現像や引き伸ばしをされていたことから(「銀塩写真」というそうです)、
まだ、3~4歳だった佐野さんも、お父さんと一緒に、押入れの中で現像タンクを回すなど、現像を手伝っていたそうで、佐野さんは、この手伝いや現像液の匂いがとても好きだったそうです。
(大きくなってからは、自分で写真を撮るよりも、写真を観るほうが好きになったそうです。)
実家が代々写真好きで自身も写真展を開催
ちなみに、佐野家は、おじいさんも、医学生だった時、写真部で活動し、叔父さんもまた、写真が好きという、写真と深いかかわりのある家柄だったことから、
お父さんとおばあちゃんが亡くなった後には、押し入れから、明治時代から6代にわたって伝えられる佐野家の古いアルバムが何冊も出てきたそうで、
佐野さんが、「富士フィルム」のギャラリーの方や「島根県立美術館」の学芸員の方に見てもらったところ、興味を持ってくれたそうで、
佐野さん自身が、これまで撮りためていた写真と併せて、2008年7月4日~7月10日、佐野史郎写真展「あなたがいるから、ぼくがいる」を開催されています。
少年時代は絵や小説も書いていた
そんな佐野さんは、両親の友人で家族ぐるみで付き合いをしていた画家の廣田健一さんに、絵を教えてもらってお絵描きをしたり、廣田さんが絵を描いているのを傍らで観たり、当時できたばかりの西洋美術館によく連れて行ってもらっていたほか、
(特に上野の美術館にはよく連れて行ってもらったそうです)
読書が好きだったお母さんの影響を受け、幼い頃から、絵本や童話全集を読み、その後、おとぎ話や、推理小説、江戸川乱歩などの怪談が好きになったそうで、
小学校の卒業文集には、普通なら6年間の思い出や将来の夢を書くところ、佐野さんだけが、探偵小説を書き、担任の先生をはじめ、みんなから全く理解されず、むしろドン引きされてしまったのだそうです(笑)
小6の時の学芸会「飢餓陣営」で役がなかったことが俳優業へのきっかけ?
また、佐野さんは、宮沢賢治が大好きだったそうですが、小学6年生の時、小学校最後の学芸会で、宮沢賢治の「飢餓陣営」をやることになるも、佐野さんは何の役もつけてもらえなかったそうで、
このことに大きな不満を感じ、その後もずっと、その恨みが残ったそうで、そんな11歳の少年の、ドロドロとした思いが暗黒の要素となり、やがて、演劇に向かうことになったのだそうです(笑)