交際相手の女優ブリジッド・オーベールさんに勧められて訪れたカンヌで、ハリウッドの一流エージェント、ヘンリー・ウィルスンさんにスカウトされ、プロデューサーのデヴィッド・O・セルズニックさんのスクリーンテストを受けると、見事合格し、ハリウッドでの7年契約を持ちかけられるも、まずはフランスで勝負したいと、この申し出を断った、アラン・ドロン(Alain Delon)さんですが、自身の希望通り、本国・フランスで映画デビューを果たした時には、演技のえの字も知らない、ズブの素人だったそうです。
「アラン・ドロンは若い頃ハリウッドにスカウトされるも断っていた!」からの続き
「女が事件にからむ時」で映画デビュー
ハリウッドのプロデューサー、デヴィッド・O・セルズニックさんのスクリーンテストに合格し、7年間の契約を持ちかけられるも、まずは、フランスで勝負がしたいと、この申し出を断ったドロンさんは、
交際相手の女優ブリジッド・オーベールさんから、今度は映画監督のイヴ・アレグレさんを紹介してもらい、1957年、アレグレ監督作品「女が事件にからむ時」に起用されて、映画デビューを果たしているのですが、
「女が事件にからむ時」より。ソフィー・ドーミエさんとドロンさん。
ドロンさんは、この時のことを、
演技なんてまったく知らなかった
(インタビュアーに向かって)僕が今、君を見つめているようにアレグレが僕を見据えてこう言ったんだ。
「アラン、僕に話しているようにセリフを口にし、僕を見つめているようにカメラに目を向けろ。そして僕の言葉に耳を傾けているように相手のセリフを聞けばいい。演じるのではなくて、役に生きるんだ」とね。
この言葉が僕の人生を変えた。もしアレグレが的確なアドバイスをしてくれなかったら、俳優として成功することはできなかったと思う
と、語るほか、
別のインタビューでも、
カメラの前で演技できるようになるまでには、それほど時間がかからなかった。(イヴ・アレグレ)監督から撮影前に2分ほど話がしたいからと楽屋に呼ばれた。
あのときにしてもらった助言が、一生の役に立った。「アラン、君は役を知っている。でも演技するな。役を生きろ」と言われたんだ。それが俳優としてやっていくことのすべてに適応する姿勢となった。
俳優としての一生の姿勢になったんだ。イヴ・アレグレ監督がくれた最初の言葉だよ。すべて彼のおかげだ
と、語っており、イヴ・アレグレ監督に対する感謝の言葉を繰り返しています。
俳優になっていなければ売春婦のヒモだった?
また、ドロンさんは、
私を愛してくれた女性が望んだので、俳優という仕事をすることになったんだ。
と、もし、交際相手の女優ブリジッド・オーベールさんの勧めがなく、カンヌに行っていなければ、俳優になっていなかったと明かしており、
当時は、海軍を除籍となって、パリの歓楽街でチンピラのよう暮らしをしていたことから、もし俳優になっていなければ、「売春婦のヒモだったに違いない」とも語っています。
デビュー後は立て続けに映画に出演
さておき、その後も、ドロンさんは、
「黙って抱いて」(1957)
「黙って抱いて」より。ドロンさんとミレーヌ・ドモンジョさん。
「恋ひとすじに」(1958)
「恋ひとすじに」より。ドロンさんとロミー・シュナイダーさん
「お嬢さん、お手やわらかに!」(1959)
「お嬢さん、お手やわらかに!」より。ドロンさんとミレーヌ・ドモンジョさん。
「学生たちの道」(1959)
「学生たちの道」より。中央がドロンさん。
と、立て続けに映画に出演すると、
1958年には、早くも、雑誌で「有望な新人」として選出されたのでした。
「アラン・ドロンは昔「太陽がいっぱい」で大ブレイクしていた!」に続く