あの真田幸村の父・真田安房守昌幸と戦ったこともあったという市村与左衛門という人物の分家で、後に農家に転身した先祖を持つ、市村正親(いちむら まさちか)さんですが、今回は、市村さんのお父さんについてご紹介します。
「市村正親の先祖は戦国時代に真田幸村の父と戦った武士だった!」からの続き
父親・信行はエリート軍人だった
市村さんのお父さん・信行さんは、市村家の長男として誕生すると、高等小学校(現在の中学校)を卒業後、16歳になった時、軍人を志し、川越市の青年訓練所(各市町村に設置された軍人養成のための機関)に入所したそうですが、
第一回射撃大会で優秀な成績を収めるなど、早くも軍人としての才能を発揮したそうで、昭和12年(1937年)には、第一師団歩兵第一連隊に配属。
そして、その後、旧満州に赴任し、ソ連との国境警備を担うと、その働きぶりが高く評価されたそうで、二等兵から伍長軍曹へと異例のスピード出世を果たしたそうです。
旧満州でのソ連国境警備は過酷なものだった
しかし、国境地帯では、抗日ゲリラ活動が横行していたため、しばしば反撃に逢い、多くの戦友を失うなど、任務は悲惨なものだったそうで、
信行さんは、当時の様子について、
急がないと急襲される
戦死9トラック2台爆破さる
などの、メモを書き残していたそうです。
父親・信行は「華北交通株式会社」に入社
そして、昭和15年(1940年)、ようやく3年半に渡る過酷な任期を終えると、軍隊に残る道もあったものの、過酷な国境地帯での体験に嫌気が差したのか、信行さんは、軍隊には残らず、北京で仕事を探し、戦友に誘われて、「華北交通株式会社」に入社。
この「華北交通株式会社」は、昭和14年(1939年)に日本と中国の合同で設立された会社だったそうですが、実際には、日本の国策会社だったそうで、中国華北地方の鉄道バスの運行を担っていたそうです。
(また、「華北交通株式会社」は、軍事物資や燃料の輸送なども行っていたことから、沿線を警備できる、信行さんのような軍人が集められていたそうで、日本人と中国人合わせて10万人もの従業員がいたそうです)
父親・信行は親しくしていた地元の有力者が殺害されたことをきっかけに帰国
そんな中、信行さんは、昭和16年(1941年)、会社が運営する「専門学校鉄路警務学院」に入り、熱心に中国語を学ぶと、中国語をマスターしたそうで、沿線の住民に鉄道敷設を受け入れさせるように説得するという、重要な役割を任されたそうですが、
住民の反日感情は凄まじく、なかなか思うように説得できなかったことから、自警団を持つ地元の有力者・楊団長と親しくなることを思いつき、楊団長とお酒を酌み交わすなどし、親交を深めていったそうですが・・・
そんなある日のこと、楊団長が、反日感情を持った中国人ゲリラに襲われ、殺害されてしまったそうで、信行さんは、「自分と親しくしていたばかりに殺されてしまった」と激しく落ち込み、ついに、帰国を決意したのだそうです。