1994年7月、小室哲哉さんプロデュースにより、「篠原涼子 with t.komuro」名義で発売したシングル「恋しさと せつなさと 心強さと」がダブルミリオンを売り上げる爆発的なヒットとなり、一躍、大ブレイクした、篠原涼子(しのはら りょうこ)さん。今回は、そんな「恋しさと せつなさと 心強さと」の秘話を、ご本人の証言を交えつつご紹介します。

「篠原涼子が若い頃は「恋しさと せつなさと 心強さと」が大ヒット!」からの続き

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篠原涼子にとって小室哲哉は限界を突破させてくれた人だった

実は、篠原さんは、「恋しさと せつなさと 心強さと」のレコーディング中、

こんな高いキーは出たことがないから歌えないかもしれないです

と、小室さんに言っていたのだそうです。

ところが、小室哲哉さんに、

歌えるよ。必ず出るよ。やってみて

と、言われ、その場でピアノを弾きながら「あー」という発声とともにキーを一つずつ上げていかれると、不思議なことに、高いキーが出たそうで、

今度は、それを聴いた小室さんから、

OK。ほら出たじゃん。じゃあこのキーでやるから

と、言われ、一番高いキーを設定されたそうですが、篠原さんはそれもクリア。

この経験に、当時、まだ19歳だった篠原さんは、

こんな限界突破をさせてくれるすごい人がいるんだ!

と、とても驚いたと同時に、小室さんから自信を与えてもらったのだそうです。

「恋しさと せつなさと 心強さと」のヒットは小室哲哉も予想していなかった

とはいえ、「恋しさと せつなさと 心強さと」が、これほどまでに売れるとは、篠原さんはもちろんのこと、レコード会社の人も、小室さんですら、誰も予想していなかったそうで、

あの曲が売れるっていうのは小室(哲哉)さんも思わなかったことみたいで(笑)、みんな売れたときにはすごい驚きましたね。私もこの曲が売れたことでたくさん仕事が入ってきたのでびっくりしました。

こんなに世の中変わっちゃうんだなって。知らない人にも声を掛けられるようになって、世界が一気に変わったなと驚きでいっぱいでした。

あの時小室さんに出会わなかったら今の自分はいなかったと思います。本当に感謝しています。本格的に音楽に挑戦したいと思っていた時期に『恋しさと~』を世に出せたのはもちろん、やりたい方向にシフトチェンジしてくれたのも全部小室さんのおかげですね。

と、篠原さんは小室さんにとても感謝しているそうです。

篠原涼子はカラオケ映像に初めて登場したアーティストだった

ちなみに、この「恋しさと せつなさと 心強さと」のカラオケ映像には、篠原さん本人が出演しているのですが、

当時、カラオケ映像で本人が映るのはNGという規定があったそうで、これに対し、小室さんが、「なぜ演歌ならOKなのに、ポップスでは駄目なのか」と主張し、初めてアーティスト本人が映る動画をカラオケ店で流すことが許可されたそうで、ここでも、篠原さんは第一人者となっています。

(PV制作は小室さんが親交の深かったエイベックスが担当しており、小室さんは、音楽制作だけではなく、アーティストの見せ方まで考えていたのだそうです)

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「もっと もっと・・・」「Lady Generation」もヒット

さておき、「恋しさと せつなさと 心強さと」が大ヒットを記録した篠原さんは、ソロ歌手としての活動に専念するため、1994年9月には、「東京パフォーマンスドール」を卒業。

その後も、小室さんプロデュースで、5枚目のシングル「もっと もっと・・・」(1995年2月)、6枚目のシングル「Lady Generation」(1995年8月)がヒットを連発し、あれよあれよとトップアーティストの座へと駆け上がったのでした。


Lady Generation

ちなみに、篠原さんは、当時のことについて、

1990年でデビューして1994年に『恋しさと~』を出してから一気に忙しくなり、当時は自分でも何をやっていたのかよく覚えていないぐらい、目まぐるしい日々を送っていました。

番組で歌ったと思ったら外に車が待っていてすぐに次の現場に移動しちゃうんですよ。で、そこでも歌って…というのを1日に3本くらいこなして、その後にバラエティを2本撮って、またその次は連ドラの撮影。

“お祭り騒ぎ”がずっと続いているような感覚でした。

と、明かしています。

「篠原涼子は昔「アンフェア」「ハケンの品格」が大ヒットしていた!」に続く

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