中学生の時には、フォークが流行っていたことから、ギターを買って弾き始めると、高校生の時には、友人に誘われ、音楽活動を始めるようになったという、竹中直人(たけなか なおと)さんですが、音楽活動と並行し、映画も製作するようになったといいます。
「竹中直人は高校時代「ヤマハポプコン」の予選大会に出場していた!」からの続き
高校生の時に映画製作の楽しさに目覚める
竹中さんは、中学・高校と美術部に入っていたそうですが、高校生の時、自ら、美術部の文化祭で8ミリフィルムを使った映画を上映したらどうだろうと企画し、みんなで8ミリカメラを買ったそうで、これで、
憧れの映画を自分で撮ることができる
と、幼い頃から憧れていた映画への思いが一気に膨らんだそうです。
(竹中さんが中学3年生から高校1年生にかけての頃、8ミリフィルム「フジカシングル8」というのが発売されて、フィルムというものが身近な存在になり、どこの家庭でも映画が撮れるようになったそうです(ただ、1本のフィルムで3分しか回せなかったそうです))
映画製作を始めたのは好きな女の子を撮るためだった
とはいえ、当時、フィルムはとても高く、たった3分でも、ものすごくお金がかかったため、6分(2本分)のフィルムを買うのが精一杯だったそうで、
実は、竹中さんは、及川真理子さんという、好きな女の子を撮りたいがために、映画の企画を提案し、自ら監督も務めたそうですが、
及川さんの近くに行くと恥ずかしく、結局、6分の時間内に、肝心の及川さんだけ撮影することが出来なかったのだそうです(笑)
当時の及川真理子さん。
高校の卒業式の日に母親が死去
さておき、音楽に、映画にと、学校生活を謳歌していた竹中さんですが、中学3年生の3学期の前、お母さんが健康診断で「結核」と診断され、
(ある日、お母さんが、苦しくて布団を押入れに入れられないと言ったことから、お父さんが異変に気づいたそうです)
その後、竹中さんが高校に進学したばかりの頃には、「結核」が重症化。お母さんは、横浜の隔離病棟に緊急入院したのだそうです。
そして、それから2年8ヶ月後には、一時帰宅するも、布団から起きられない状態が続き、
(それでも、お母さんは、体調が良い日は、レコードをかけてほしいとせがんだそうです(小椋佳さんの曲がお気に入りだったそうです))
竹中さんの高校の卒業式の前日には、何度も自分の枕元に竹中さんを呼び、
最終的にお父さんと2人になってもちゃんと生きて欲しい
自分の好きなことをどんどんやりなさい、そしてちゃんと生きて欲しい
などと、これからのことを細かく話したそうで、
その翌日、お母さんは、竹中さんが高校を卒業したのを見届けるかのように、54歳という若さで、息を引き取ったのだそうです。
(死期を悟ったお母さんは、最愛の息子である竹中さんと直接向き合い、想いを伝えるために、隔離された病棟ではなく、自宅に戻ることを選んだのでした)
「竹中直人の「笑いながら怒る人」は偶然の産物だった!」に続く
4歳の頃の竹中さんと母・芳枝さん。