13歳の時、お母さんに連れて行かれた家で、年上のお兄さんたちが、ギター、ドラム、ピアノなどで洋楽を演奏しているのを見て、衝撃を受け、以来、音楽に夢中になったという、井上順(いのうえ じゅん)さんは、やがて、そのお兄さんたち(「六本木野獣会」)とバンドを組むと、1964年、16歳の時には、グループ・サウンズバンド「ザ・スパイダース」に加入します。
「井上順の生い立ちは?中学で音楽に出会い夢中になっていた!」からの続き
田邊昭知にスカウトされて「ザ・スパイダース」に加入
13歳の時、「六本木野獣会」のメンバーと知り合った井上さんは、やがて、メンバーとバンドを結成すると(ヴォーカルを担当)、銀座や新宿の「アシベ」、上野の「テネシー」、池袋の「ドラム」などのジャズ喫茶で、ライブ活動を始めたそうですが、
1964年、高校1年生(16歳)の時には、そのステージを見た、グループサウンズバンド「ザ・スパイダース」のリーダーだった田邊昭知(たなべ しょうち)さんから、
新しい形のスパイダースを作りたい
と、スカウトされて、「ザ・スパイダース」に加入します。
(井上さんがスカウトされたのは、「ザ・スパイダース」には、美形がいなかったから、という理由だったそうです)
「ザ・スパイダース」では堺正章とツインヴォーカル
すると、最年少の井上さんと堺正章さんをツインヴォーカルに擁した「ザ・スパイダース」は、
その後、かまやつひろしさんが影響を受けた「ビートルズ」「ローリング・ストーンズ」などの、「マージー・ビート」や「ブリティッシュ・ビート」と呼ばれる楽曲を演奏し、来日した海外アーティストの前座やバックバンドとして活動するのですが・・・
人気はパッとしませんでした。
「ザ・スパイダース」
(「ザ・スパイダース」全盛期のメンバーは、井上さん、堺さんのほか、設立者の田邊さん、かまやつひろしさん、井上孝之さん、大野克夫さん、加藤充さんの7人)
ファーストシングル「フリフリ」でレコードデビュー
それでも、1965年5月には、ファーストシングル「フリフリ」でレコードデビューすると、
「フリフリ」
当時の日本にはなかった斬新な音楽性(ブリティッシュ・ビート)や、ミリタリールックをいち早く取り入れ、グループサウンズ界に定着させるほどのセンスの良さ、さらには、コミカルタッチの演出も得意とする実力派バンドとして高く評価され、
1965年11月「越天楽ゴーゴー/トワイライト・ゾーン」
1966年2月「ノー・ノー・ボーイ」
3月「青春ア・ゴー・ゴー/クライ・アンド・クライ」
4月「ヘイ・ボーイ/ミシェル」
7月「サマー・ガール/なればいい」
と、立て続けにシングルをリリース。
1966年5月には、「日劇ウエスタンカーニバル」にも初出場を果たすのですが・・・
当時はまだ、青春歌謡やムード歌謡の勢いが強く、どれもヒットとはならなかったのでした。
「井上順は昔「スパイダース」で「夕陽が泣いている」が大ヒットしていた!」に続く