お父さんが長距離トラックの運転手で不在がちだった中、お母さんに愛情深く育てられたという、研ナオコ(けん なおこ)さんは、幼い頃から歌が得意だったことから、やがて歌手を目指します。
少女時代からのど自慢大会で活躍していた
小学校の給食費が家計を圧迫するほど、貧しい家庭で育ったという研さんですが、伊豆の大自然の中、川で泳いだり、木のつるにつかまって「わぁ~」と叫びながら向こう岸に渡ったりとターザンを地でいくような、お転婆な女の子だったほか、
3歳の時から歌を歌うことが好きで、幼稚園の頃には、漠然と、歌手になりたいと思うようになると、当時流行していた、美空ひばりさんや島倉千代子さんの歌などは全て歌えたそうで、4歳の時には、地元の夏祭りの素人演芸会に、飛び入り参加で「ひばり節」を歌い、拍手喝采を受けたそうです。
そして、1963年、10歳の時には、視聴者参加型番組「日清ちびっこのどじまん」に出場し、「星空に両手を」を歌唱するのですが、なんと、子どもが歌唱するのにふさわしくないと怒られ、不合格。
それでも、1965年、12歳の時には、「のど自慢大会」(静岡放送)に出場すると、「悲しい酒」を歌い、見事合格。
1967年、14歳の時にも、再び出場した、「のど自慢」(静岡放送)で準優勝に輝いたのだそうです。
同い年の小林幸子が歌手デビューしたの見て歌手になることを志す
そして、小学校6年生(12歳)の時には、同い年の小林幸子さんが、歌手デビューしたのをテレビで見て、
子どもでもデビューできるんだ。こんな年で歌手ならわたしだって・・・
と、衝撃を受け、それから、本気で歌手を目指すようになったそうです。
母親に楽をさせたい一心で歌手を志していた
それからというもの、研さんは、小学校からの帰り道では、大声で小林さんの曲「ウソツキ鴎」を歌いながら帰るほか、
時間がもったいないからと、学校にも行きたくなかったほど、デビューへの思いを膨らませていったそうですが、
後に研さんは、
(実家は)かやぶき屋根で、隙間風は入るし、寒いし、夏は暑いし、もう100年以上たってる農家だったんですよ。
母は、汗びっしょりになりながら朝暗いうちに起きて一番最後に寝るんです。少しでもラクさせたい!どうやって稼いだらいいかなと思って…。凄く単純な考えだったんです。
と、お母さんに楽をさせてあげたい一心だったと明かしています。
日劇「ウエスタンカーニバル」のピーターを見て歌手への思いを強くする
そんな研さんは、成長し、その後、高校に進学すると、初めて友達と遊びに行った東京で、日劇の「ウエスタンカーニバル」を観劇したそうですが、
出演していたピーター(池畑慎之介)さんがあまりにもきれいだったため、
私もあんなスターになる
と、その時、改めて、歌手になる気持ちを強くしたのだそうです。
(「テンプターズ」のショーケンこと萩原健一さんを見てシビレたという説も)
「研ナオコのデビュー当時はパッとせず地方営業の日々だった!」に続く