1960年代始め、「乾いた湖」「三味線とオートバイ」「わが恋の旅路」「夕陽に赤い俺の顔」「涙を、獅子のたて髪に」「乾いた花」など、次々と作品を発表すると、日本的な様式感覚と独特の美意識に裏打ちされた演出で、”松竹ヌーベルヴァーグのリーダー”と称された、映画監督の篠田正浩(しのだ まさひろ)さん。今回は、そんな篠田さんの知られざる生い立ちについてご紹介します。
年齢は?出身は?本名は?従姉妹は?
篠田さんは、1931年3月9日生まれ、
岐阜県岐阜市の出身、
学歴は、
岐阜県立加納高等学校
⇒早稲田大学第一文学部卒業
ちなみに、「篠田正浩」は本名で、美術家・版画家・エッセイストの篠田桃紅(しのだ とうこう)さんは、従姉妹です。
幼少期・少年期は戦争一色だった
篠田さんは、1931年、「満州事変」が起きた年に、岐阜県の古い庄屋で誕生すると(9人兄弟)、1937年、6歳の時には、「支那事変」が始まり、1941年、小学5年生(10歳)の時には、「真珠湾攻撃」が行われるなど、戦争一色の中、幼少期と少年期を過ごしたそうです。
また、そんな中、篠田さんが12歳の時には、2番目のお姉さんが「結核」で亡くなり、次いで、その下のお姉さんも「結核」に感染したそうで、
お母さんが、
このままでは篠田家の子供は結核で滅んでしまう
と、牛の内臓を買ってきて、篠田さんたち子供たちに食べさせてくれるなど、生と死が隣り合わせの毎日だったそうです。
中学3年生の時には切腹の仕方を教えられていた
また、1945年3月、篠田さんが中学3年生(14歳)の時には、学徒動員令が出て、女子挺身隊と共に陸軍の各務原飛行場の軍需工場に働きに行くことになったそうですが、
(授業がなくなるので、ものすごく嬉しかったそうです)
そこでは、軍事教練を教えていた将校から、
おまえたちが動員されるということは、今度の戦争は日本が危機的状況にある。おまえたち中学三年生も、お国のために働かなければならない。
いざという時、アメリカに占領された時、絶対に捕虜になってはいけない。潔く天皇陛下にお詫びするために切腹しろ
と、言われ、切腹の仕方を教えられたそうです。
(将校が中学校にいたのは、第一次大戦後の軍縮条約により失職した将校の失業対策として、中学校に派遣されていたため)
ちなみに、切腹の仕方ですが、将校によると、ズブっと差して引くと、腹圧で中の臓物がドバっと出て醜いため、
腹だけ切って、頸動脈を
と教えられたそうです。
天皇を「現人神(あらひとがみ)」だと信じていた
それでも、生まれた時から、”天皇は現人神(あらひとがみ)”(天皇陛下は神様)と教えられていた篠田さんは、当時は、切腹の仕方を教わっても、何のジレンマも痛みも感じなかったそうで、
天皇のために命を捧げるということは今の世代にどんな説明しても、理解不可能だと思います。
今、息子が学校から帰ってきて、「今日切腹の仕方を教わってきたよ」なんて言ったら、「それは一体何?」という話になってしまうのですが、その頃は国家全体で、学校も全部狂気に包まれていた。
と、語っています。
(「日本書紀」「古事記」によると、天照大神(アマテラス)の五世孫の神武天皇(初代天皇)が、奈良盆地一帯の指導者長髄彦(ナガスネヒコ)らを滅ぼして、畝傍橿原宮(うねびかしはらのみや = 現・橿原神宮)に遷都して日本国を建国したとされており、そのイデオロギーが当時の日本には深く根付いていたそうです)
「篠田正浩の少年時代はいつでも切腹(死ぬ)の覚悟が出来ていた!」に続く