日本映画産業全体が斜陽化してきた1965年、「松竹」を退社してフリーになり、翌年1966年、独立プロダクション「表現社」を設立すると、1969年には映画「心中天網島」を大ヒットさせた、篠田正浩(しのだ まさひろ)さんは、その後も次々に名作を発表します。

「篠田正浩は若い頃「心中天網島」が大ヒットしていた!」からの続き

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カメラマン・宮川一夫とタッグを組み次々と秀作を発表

1969年、映画「心中天網島」を大ヒットさせた篠田さんは、その後も、日本を代表をする名カメラマン・宮川一夫さんと組んで、

1971年「沈黙 SILENCE
1977年「はなれ瞽女おりん
1984年「瀬戸内少年野球団
1986年「鑓の権三
1989年「舞姫

など、次々に秀作を発表。

1986年には、近松門左衛門の浄瑠璃「鑓の権三重帷子」を原作とする「鑓の権三(やりのごんざ)」が「第36回ベルリン国際映画祭コンペティション部門」で銀熊賞(芸術貢献賞)を受賞しています。

(宮川さんは、黒澤明監督、溝口健二監督、市川崑監督、小津安二郎監督など、世界的に名高い日本映画の巨匠のもとでカメラを回しています)

「少年時代」「写楽」「瀬戸内ムーンライトセレナーデ」では積極的にCG合成

ただ、宮川さんは、篠田さんが知り合った時には、すでに60歳を超えており、「舞姫」の時には、なんと80歳を超えてカメラを回し続けていたそうで、さすがに、「舞姫」の翌年には、視力の衰えにより、黒木和雄監督の「浪人街」を一部担当して、引退。

その後、篠田さんは、過去の風景を再現するのにCG合成を積極的に取り入れ、

1990年「少年時代
1995年「写楽 Sharaku
1997年「瀬戸内ムーンライト・セレナーデ


「写楽 Sharaku」より。(左から)真田広之さん、広末涼子さん、葉月里緒奈さん。

などを発表しています。

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映画「スパイ・ゾルゲ」発表後に引退

そして、篠田さんも、映画界入りしてちょうど50年となる2003年には、自らの映画人生の集大成となる作品「スパイ・ゾルゲ」を発表し引退。

篠田さんによると、1986年、ベルリンを訪れた際、冷戦の凄まじさを思い知らされ、戦争を体験した映画監督として、昭和の時代をテーマにした作品を撮るべき宿命を感じ、この「スパイ・ゾルゲ」を製作したそうで、

劇中、昭和初期の銀座や上海の町並みをリアルに再現するため、日本人監督として初めて最新CG技術を導入するなど、「スパイ・ゾルゲ」の製作には全身全霊を賭けており、

「スパイ・ゾルゲ」では、昭和初期のリアルさを出すためには膨大な労力を必要としました。例えば、昭和八年銀座四丁目の服部時計店(今の銀座和光)の周辺に、市電が8両、車が40台、人が900人動いています。このシーン、全部CG。

と、語っています。


「スパイ・ゾルゲ」より。イアン・グレンさんと本木雅弘さん。

(ちなみに、妻・岩下志麻さんもこの「スパイ・ゾルゲ」に出演しているのですが、出演者としてだけではなく、メイキングビデオの監督として現場でカメラを回し、その映像を「わが心の「スパイ・ゾルゲ」 妻・岩下志麻が見た 監督・篠田正浩」として発表しています)

「篠田正浩の「夜叉ケ池」が42年ぶりに4Kデジタルリマスター版で復活!」に続く


わが心の「スパイ・ゾルゲ」 妻・岩下志麻が見た 監督・篠田正浩

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